1959年の合化労連の大会で、ときの総評議長で合化労連委員長であった太田薫、事務局長の岩井章はいわゆる下呂談話を発表した。労働戦線では全労会議・総同盟との対決姿勢を打ち出した一方、共産党との共闘を視野に入れていた。労働組合では、1940年代末頃、共産党本部による内部干渉に反発し、民同が出来、その内部抗争がずっと長く続いていた。そのため、古くからの労働運動家の人たちは、今でも共産党に対してのアレルギー反応を持っている。

太田薫は66年に総評議長を辞めるが、その後も活動を続ける。太田は70年代前半に労戦統一運動に入っていった時から、自らを労働組合主義と規定し始めるが、政治的には共産党だけでなく、公明党・民社党も含めた自民党に対抗しうる革新政権の樹立を目指していた。60年代は自民・社会・民社・共産で、そこに公明が入ってくる。それが70年代後半は、ロッキードの影響もあり、自民から新自由クラブが独立、社会の方もお家騒動で江田三郎が出て、社会市民連合になり、その当時は「多党時代」と呼ばれる状況が生まれ始めていた(今の乱立からすると少ないけど)。こうした状況下で、太田が共産党に親和的なこと自体は私には少なくとも違和感はないのだが、民社党との共闘になると話は違う。というのも、そもそも59年に西尾末広を社会党から追い出したのは太田たち、社会主義協会であったのだから。

70年代後半には、松前重義が中心になって社公民中道路線が模索されていて、総評の富塚事務局長、槙枝議長もその考え方に傾いていた。それがややうまくいかなかったのは1979年都知事選で太田が立候補したときで、この選挙では太田は社会党の公認も直前まで得られず、敗北した。このとき、積極的に選挙協力したのは共産党で、最終的には社共で戦うことになった。だが、その後、社会党が総選挙で公明党と協力したことで、共産党との対立は決定的になる。これ以降、労働組合運動のなかで統一労組懇の動きが活発になってくる。統一戦線促進労働組合懇談会は、労働戦線統一ではなく、政治的な統一戦線を目標として掲げた運動であり、これは年来の共産党の考え方であった。

翌1980年、総評、同盟、中立の3つのナショナルセンターの民間産別から構成される統一推進会が生まれる。結果的には、統一推進会は統一労組懇排除の方針を打ち出すことになるが、この中心にいた藁科電機書記長は後に、統一労組懇をどうするかは内部で激しい議論が行われた結果であり、最初から決まっていたわけではないと証言している(オーラル・ヒストリー)。ただし、6人のうち2人が選別主義を否定したとのことだが、その2人が誰かは明らかにされていない。太田が都知事選に出ずに、合化労連委員長のままであれば、まったく違う方向になっただろう。

労戦統一は、1989年に現在の連合が出来たときに達成されたということになっているが、これは勝者の論理であり、共産党系の全労連と、それから連合・全労連のいずれにも行けない総評系の組合の受け入れになった全労協も出来た。しかも、新聞労連や全港湾のように、そもそもナショナルセンターに入らないという道を選んだ産別もある(そして、この両者は連合からの誘いを断っている)。共産党系の統一労組懇排除の方向は、少なくとも、自治労、日教組にとっては組合分裂の契機になった(分裂組は全労連加盟の自治労連、全教になっている)。

総同盟内での左右対立が激しくなったのが1923年くらい(共産党結党はその前年)なので、右派社会党→民社党、総同盟ないし全労会議→同盟の系譜の人たちは今でも連合にいるわけだが、もし民進党が共産党と選挙協力をしてそれを支援するということになれば、90年以上続いてきた先人たちの歴史を書き換えるかもしれない岐路に立っているといえる。

これ、「連合」成立の経緯を考えたら、大変な決断です。私が恐れている最悪のシナリオは、いずれの結論にせよ、大した論争にもならず、なんとなく決まっていってしまうことです。喧々諤々、メッチャ、揉めなきゃいかんとこですよ。
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