友人の畠中さんから『地方都市から子どもの貧困をなくす』をいただきました。ありがとうございます。この本は、大原社研の大原社会政策研究会で志賀さんが報告した後の飲み会で意気投合した二人が中心になって、九州宮崎の貧困の実践活動を調査し、その問題点を広く社会に訴えようとした、そういう本です。というか、私、飲み会で畠中さんの隣に座っていて、その前が志賀さんだったんだけど、そんな話してたんだ。歴史的証人(?)になり損ねた感がありますな。仲間の書いたものなので、なんとかバックアップしたいという気持ちは大いにあるんですが、正直、手放しで勧められるかというと、難しいなというのが初読の感想です。

この本でアトラクティブなのはタイトルと事例、それから「プロローグ」「エピローグ」です。それぞれの「想い」が伝わってきます。一般書ですから、アカデミックな価値観だけで、評価する必要はないと思いますので、むしろ、この「想い」の部分がよいということをまず、紹介しておきたいと思います。実践的な活動をするのは、迷いながら進めていくしかないとするならば、この本はあれこれを考える格好の材料であることは間違いないです。それから、パッションがもたらす、熱というか、そういうものが間違いなくこの本にはあります。その意味で、こういう問題を考えている同志がいるという勇気がほしいひとはそれだけで手に取る価値があります。

圧巻はやはり、宮崎で「のびのびフリースペース」をやっている喜多裕二さんの事例編でしょう。とにかく、子どもたちの具体的な事例が紹介されていて、圧巻です。最後に経済的な貧困があろうとなかろうと、心の貧困を抱えているという認識が示され、結論ではとにかく「聴くだけ」の重要性が語られています。喜多さんの二つの章が説得力を持っているのは、もう経験から出た言葉だから、という一点に尽きると思います。ただし、この「心の貧困」が本書全体を貫くキーワードになっているんですが、それがよかったかどうかというと、私ははっきり言って反対ですね。それはこの本が誰をどういう形で説得しようとしているのかということにもかかわるでしょう。

この本では、アカデミシャンたちは貧困をより構造的に掘り下げて理解しようと模索していますが、その結論はより多くの市民(ないし住民)が「子どもの貧困」関心を持って、活動に参加すること、になっています。しかし、そうだとすると、宮崎やその他の地域でもよいですが、何かを始めようとする人たちにそうした多様な情報がどれだけ必要なのか、とりわけ入口時点でどれだけ必要なのかという点では疑問です。そういうことは、活動をしていくなかで、徐々に掘り下げていけばよいのであって、最初からそういう100年かけて解決するような問題に取り組むんだというような意気込みは、かえって多くの人をしり込みさせてしまうのではないかという感じがします。でも、そういう情熱はアカデミシャンとしてというより、彼らの若さなのでしょう。

それから、もう一つ。これが「心の貧困」という概念を中心に掲げることの最大の理由ですが(ほかにもありますが、今回は一つだけ)、「心」の「支援」はしばしば、問題のある人を引き込みます。というか、自分の「心」にも問題があるのに、それをちゃんと見つめずに他人を救おうという行動に出て、その実は自分が救われたい、というタイプの人です。これは今書いたいろいろな部分をちゃんと認識している場合と、無意識の場合があります。そういう人がいると、かえって事態がややこしくなります。もちろん、交流の中で成長していくことはあるので、完全に排除する必要はないですし、実際に来て一緒にやるという段階になったら、受け入れて一緒にやるしかないんですよ。しかし、だからこそ、「心」を前面に打ち出すのはどうかな、と。

このように考えていくと、喜多さんがおっしゃるただ聴けばいいというのもハードルが相当に高い。相手を逸らさずにまっすぐ話を聞くというのは、単なるテクニカルな話法的なものだけではなく、それを受け止める、あるいは必要以上に受け止めない、そういう微妙な覚悟が要求されます。正直、かなりむつかしい。何がむつかしいかというと、どうしても自分の判断を挟んでしまうんですよ。さらに、自分なりの結論を先に出して、解決策を提示したくなる。その衝動に耐えられない場合は、相手の話を途中で遮ることになります。もちろん、テクニカルに話を遮る必要があるときもあるでしょうけれども、多くの場合、それは相手に自分が拒絶されたと感じさせるでしょう。この問題のむつかしいところは、これを自然にできている人もいて、そして、しばしばその人たちは自然にできてるからこそそれが簡単だと思ってしまっているということにあります。ことの性質上、仕方ないんですが。しかも、解決策を提示しなくてはと気負うと、この子どもの貧困のような複雑なケースでは実際には無理なので、自分の無力感を育てることになってしまいます。

そうすると、裾野から広げていくには、昨今の子ども食堂でもいいんですが、場を作って、そこで何気ない他愛ないおしゃべりをするということが重要ではないか、と思います。それは支援者側に焦点を当ててたプランです。つまり、入りやすくするために、ということです。実際には、そういう場さえもしんどいというか鬱陶しい、むしろ、キラキラしている感じが嫌な子たちもいるでしょう。だけど、そういうところで救われる人もいると思います。ただ、そのときに気を付けなくてはいけないのは、解決策は提示できなくても気にする必要はないんだ、ということだけは共有しておくことでしょう。

私、本当は自分がかかわっていない運動、あるいはコミットする可能性がない運動に、提言するのは好きじゃないんですが、ちょっと彼らの情熱に当てられましたね。ただ、アカデミシャンとして参謀的に参加するならば、全体を鳥瞰する戦略と、それを実現するための一つずつの手段は両輪で、考えた方がよいんじゃないかと思います。そうでないならば、そういうもの(分析)は全部投げ捨て、一兵卒としてできることだけをやるしかないと思います。アカデミックな観点から考えて納得できない部分については、将来、研究書が刊行された時点で、しかるべき形でやることにします。
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