何年か前に晴山俊雄さんの『日本賃金管理史』を経営史学(41-2)に書評したことがある。この書評は客観的に読むと、批判に費やしている紙数が多いが、私としてはこの本を門外漢が読むときのポイントもすべて説明した。その意味では書評というより解説という趣になってしまった。

その晴山さんの賃金論の核は欧米=契約型賃金、日本=所属型賃金と捉えていることである。晴山さんは元立教の三戸公先生のお弟子さんで、すなわち、日本的経営論の系譜に位置する。一般的には誰の弟子であったかがその人の研究内容を決定付けるわけではないが、晴山さんの場合、かなり忠実に日本的経営論を継承しようとしているので、この説明が必要なのである。

日本的経営論、日本的賃金論にある程度、親しんだ人ならば、欧米=契約、日本=所属という対立構造は受け入れやすいものなのかもしれない。実は、濱口さんの『新しい労働社会』の序章で雇用契約を欧米=職務、日本=メンバーシップと捉えているのもこのアナロジーとみてよい。言ってみれば、これは戦後数十年にわたって議論されてきたことを素直に継承したら、このような議論になるというような典型例なのである。そして、こうした見方は、半分くらい当っているので性質が悪い。

この手の問題を理解するためには、予備知識として職務(job)の捉え方が二種類あることを知る必要がある。一つは、ほぼtrade(職種)と同じ意味であり、実はこちらの仕事内容は概念的には必ずしも厳密に知られる必要はなく、おおよそこの領域のことをやっている、ということでよい。言い換えれば、仕事内容に言語化、形式知化できない部分があっても構わない。もう一つは、科学的管理法の時間・動作分析によるtaskの積み上げによって構成されるjobである。労働の領域では、この狭義の定義をjobと考える人もいる。

使用者がtradeを使うときには、仕事のやり方を指示する事が出来ないという意味で、雇用関係よりも請負関係にならざるを得ない。形式的に雇用関係でも、事実上、仕事のやり方を親方職人に丸投げする方式を内部請負方式と呼ばれる。呼称はともかく、この方式は会社のどの層でも採用しうる。それは請負や外部委託がどの層でも存在することと等しい。たとえば、経営再建のためのトップマネジメントの招聘という形で実現するかもしれないし、工場の現場での請負という形になるかもしれない。

後者のjobの意義を理解するために、ブルーカラーを考えておこう。熟練職人というのはtradeに近かった(イギリスの場合、完全にtradeだった)。アメリカ機械技師協会(と訳すかどうか分からないが、ASMEのこと)のテイラーは工場内での熟練工支配を解体しようとした。弟子のギルブレイス夫妻も含めて動作・時間研究による標準動作の確立というテーゼは、熟練工支配から資本家(企業家)及びその委託を受けたコンサルないし職員による支配を狙ったものであった。

科学的管理法を各国がどのように受容したかは興味深いテーマだが、日本では先進的な企業は1920年代までには取り入れていた。ここで私が先進的企業といっているのは紡績大企業である。ここでいう科学的管理法には1910年代から20年代に発展した標準原価計算も含めている。ただし、紡績は例外的な存在であったと推測される。とはいえ、動作研究自体は他の産業でも1930年代までに相当に調査・研究されており、主要な論点はほぼ出揃っていたと考えられる。

職務給導入や能力主義、最近では成果主義などがほぼ同じテーマが十数年ごとに繰り返し、論じられてきた。その起源はおそらく、1920年代にあるだろう。晴山さんによれば、職務給を導入する過程で、後にいわゆる年功賃金と理解される形態の賃金が発見されたという。私はこの意見に賛成しないが、傾聴に値する仮説だと思う。ただし、この頃に議論に参加した人たちは実務のプロであったので、定額給と出来高給(請負給)の性質上の長短をよく分かっていた。

出来高給は基本的に仕事の成果に対して支払われる賃金形態である。ただし、一般に数でカウントすることが多いため、質について評価しにくいといわれる。これに対し、定額給は生産数量自体のインセンティブがないため、粗製乱造に走る危険は少ない。また、部下の監督や教育などのいわゆる間接業務には出来高給は向かない。そのため、定額給で支給せざるを得ない。監督層に定額給を支払うとすると、熟練工の賃金より著しく低ければ、その成り手がいない。だから、ある程度の水準を支払う必要があるし、定期昇給も当然、必要になる。しかし、勢いどうしても査定が甘くなりがちで、必要以上の人員を昇進させることになりがちである。これが1920年代以前でも認識されていた、賃金形態そのものの性格が齎す問題であった。出来高給と定額給の割合をどのように決めるかには正確な解答はなく、程度問題であったといってよいだろう。

1930年代以降、特に大陸で戦争が始まった直後は、海軍の波多野貞夫は定額給の必要を訴えた。ただし、波多野の議論は確信犯的に分裂的であり、要するに、出来高給から定額給への移行を実行できるために、いろいろな方面から自説を補強している。とはいえ、その中でも一つの核がある。厳密な生産管理(生産計画)を前提とすることである。そこには二つのフェーズがある。第一に、理論的に考えれば、作る量が最初から決まっていれば、やる気を出した熟練工で多く作りすぎても困るわけだ。第二に、マネジメントが確立していれば、労働者にやってもらう仕事は予め決まっている(標準作業の確立)。だが、完璧なる生産統制は難しく、反対派はその実現可能性を特に問題にした。

さらに、標準作業の実現に向けて、根源的な疑問が投げかけられた。すなわち、ある仕事は個別の作業にすべて解体しうるのか否かである。逆に言えば、個別のtaskの集合がjobなのかということである。今、一つのjobがtask1~task5とtaskA~taskEの10のtaskで構成されているとしよう。数字のtaskとアルファベットのtaskの間に優劣はない。このときtask1だけをこなせる労働者とtask1とtaskAをこなせる労働者を比べると、論理的にはtask1の能力は同じだと考えられる。しかし、実際にはtaskAという別の仕事を経験することによって、task1の仕事について深く理解できるかもしれない。分かりやすい例をあげると、前工程の作業や後工程の作業を経験することで、自分の工程の仕事にどのような意味があるのか理解できるようになる、というようなことだ。実際のところはどれだけ理論的に詰めて考えられたのかはよく分からないが、少なくとも企業の実務家たちは、結果的にある仕事を個別作業に解体しえない部分が残ることを認めた。それはときには解析能力の低さの結果として認識されたこともあった。何れにせよ、熟練工の能力に頼ったのである。日本の賃金が複雑なのは、このような様々な分析の結果を引き継いでいる側面があるのだ。

もう半分、頑張ると、所属型という理解がどうして生まれたのか、その理解が半分くらいは正しいという意味は何か、というようなことを論じられるのだが、もう飽きちゃったので、このあたりでやめておこう。

ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございました。リクエストがあれば、続きを書きます。
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コメント
つづきよろしく。
森さんの八幡分析なんかとも絡むんですか。まだ読んでないけど。
2009/08/04(Tue) 19:44 | URL | 稲葉 | 【編集
森先生のとは関係ないんですが、夜か明日の朝くらいまでに書きます。
2009/08/05(Wed) 09:13 | URL | 金子良事 | 【編集
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