社会政策と医療の歴史について考えるために、いくつかの準備作業を行っている。今まで敬遠してきたけれども、とりあえずは後期フーコーの社会医学の議論、それから統治性論あたりが重要だなとあたりをつけて、講義集成と思考集成をのぞいてみた。今のところ、76年以降が重要だなということまでは分かった。

身体を媒介に政治というか、生政治を考えていくのはいいんだけれども、二つの点で留保が必要。一つは、東洋においては統治と身体が結びつく必要は必ずしもなかったということ。修身斉家治国平天下のような思想は必ずしも身体を必要としない。逆に言えば、受肉に見えるように、キリスト教的伝統のなかではもっと古くから「身体」は重要な概念である。それと近世の社会医学的世界とはどう繋がって、断絶するのか、この辺は意識しながら、勉強したい。したいけれども、あまり、私のテーマとは関係ないかもしれない。その理由というのが、ダイレクトに二つ目の留保の論点なんだけど、少なくとも後藤新平はわりと素朴に、社会=身体(有機体論)、病気=社会問題(特に貧困)を受け入れていて、その上に社会政策が作られたという気がしている。キリスト教的伝統をどこまで引き受けているのか、ということは留保せざるを得ないんだけれども、少なくとも社会ないし国家を身体と捉えるメタファーはわりと受け入れられていたように思う。もし、そうであれば、ここはそんなに深掘りする必要はない。

フーコーが二回目の日本訪問の際の感想として、それ自体はありふれたものだが、日本には西洋的な(モダンな)物質文明がある一方、そうではない古い思想が同居しているのが不思議だということを言っている。これは面白い話で、レーヴィットの二階建て思想の話と通底している。私は今までこのことをあまり重視してこなかったが、日本ではある意味で、思想と実践を切り離す、というか、私の感覚では思想をとりあえず括弧に入れておく、というようなことがある気がする。それが古くからよく言われる「日本人は思想してきたのか」みたいな話になる。

社会政策的な観点の医学史としては、なんといっても野村拓の研究をあげなければならない。『国民の医療史』と『20世紀の医療史』は決定的な仕事である。読み物という性格が強いので、細部をどういう風に考えているのかがよく分からないのが難点ではあるが、「労働力」から医療の発展を見ていく基本的なアイディアはそれを補って余りあるほど素晴らしい。フーコーの「社会医学の誕生」とも平仄が合う。そうなってくると、戦争と資本主義、それから医療の展開をどう追うのかが次のポイントになってきそうだ。

私の問題意識としては、社会政策は日本における国民国家の創成と深く関わっていると思うので、そういう意味ではフーコーの議論も示唆的ではあるのだが、ことここからは佐藤成基さんの『国家の社会学』と距離が近いかもしれないと思う。ただ、佐藤さんが言うように70年代以降欧米で発展したような国家の社会学は日本に根付いているとは言えないし、その上、政治思想史が日本においては先行していた側面があると思う。端的に言えば、丸山学派である。これを思想史太郎という揶揄で語るよりも、ある種の実践知への接近という観点、もう少し端的に言えば、運動的側面から見た方がいいかもしれない。それがある意味では、日本における「思想」と「実践」という関わりにおいて、ある役割を果たしていたのだと思う。それが何かは解き明かしているものがあれば、ぜひ読みたいところである。思想、概念から国家への道筋は、もちろん、厳密に言えば違うんだけれども、どこかで構築主義的なアプローチと通底している性格があって、それゆえに(時期的に)先行していた側面も持っていたのではないか。ただ、私としては構築主義と距離を置いた佐藤さんのアプローチが興味深い。だけど、ヨーロッパと日本は違うんだよなあ、本当に。丸山、松下、堀尾をどう考えるかは私にとって一つのテーマだが、まあ、今回の本ではそこは多少、匂わせることはあっても、措いておこう。というか、遠くに行きすぎた。市野川さんの論文を読んだら、少しは戻ってこれるかな。

酒井泰斗さんのバックアップで研究会を開いていただけることになりました。ここから数回の話に関心のある人はぜひ一緒にお付き合いいただければ幸いです。詳しいことは、ここです。どうぞよろしくお願いします。
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