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Facebookで回って来た「日米仏の思考表現スタイルを比較する」というインタビュー記事が面白かったのと、ここのところ、Facebookのコメントのやりとりや、リアルでの大学院生にいろいろなことを伝えたりするなかで、この方法の問題を改めて考えるようになったので、そのあたりの話題を今日は書いてみたいと思う。

明治以前(もうちょっと延伸して戦前)の日本は漢文の型というものを持っていたけれども、それが失われてしまったと一般的によく言われている。今の生活綴り方的なスタイルの作文って、大正期に作られたものではないかと私は思っている。学校教育のなかで誰に言われたのか覚えてないけど、作文を日本の随筆の伝統に連ねるのはおそらく嘘、というか、少なくとも創られた伝統だろう。その推測の根拠は、この問題には丸谷がよく論じていたように口語の成立の問題が関わっており、これは間違いなく明治以降、もっと具体的に言えば、二葉亭四迷以降の話である(ただ、講談とかを含めるともうちょっと微妙だと思うけど)。生活綴り方作文は、ドイツの新教育とか、アメリカのデューイの経験主義(プラグマティズムの一つ)の影響を受けたもので、「生」とか「経験」とかを重視する流れで、だからこそ、1920年代以降に広まったんだと思うんだよね。

丸谷才一流に言えば、型の重要性を見失ったということでもあるんだけど、他方、型のありようがつまらないものを生み出すということはたしかにあって、それに対して辟易していた側面も否定できない。具体的に上げると、戦後の作文論では一世を風靡した清水幾太郎に『日本語の技術』という本があって、その本の中には紋切型の漢文で文章を書いてくる人の話が書いてあって、それよりは作文力は上がっているというのが彼の評価だったと思う(というのは、この本が見当たらなかったため)。何といっても圧巻なのは、阿部 筲人の『俳句』(講談社学術文庫)で、素人の紋切型表現をこれでもかというほど具体的に並べて、分類している。だから、型があった方がかって自由というのは、そこまで到達できる人の話で、広く言えるかというと、そう言えないと思う。

私は欧米と日本の違いは、方法論の差ではないか、と思う。たしかに、近世以前から日本には型があったけれども、それは素読のようなもので、有無を言わさず、文字通り体得するものであって、そのことについての方法論が十分に発展してきたとは言えないのではないだろうか。この分野は西洋ではレトリックとして古代から研究され、蓄積されてきた。もちろん、日本でもそういうものは輸入され、あるいは独自に咀嚼されてはいるが、十分に文化として定着しているとは言えない。それは「レトリック」がまるで詐術、そう「嘘も方便」のような意味で使われることからも知られる。

個人的には、佐藤信夫のレトリック本、丸谷才一『文章読本』の大岡昇平の『野火』だけで鮮やかにレトリックの具体例を解析して見せたもの、渡部昇一のレトリック関係のエッセイ、篠沢秀夫の文体論なんかは、20代にはずいぶん、読んで、表現方法ということについては考えてきた。テキスト分析をする人にとってはこのあたりの知識は当然、一般常識の範囲なんだろうけれども、私の周りには概念とか思想を分析する人がいなかったので、話を共有することは出来なかったし、今日書くまで話したこともなかった。渡部、篠沢は保守論客だし、左右のレッテルで思考停止してしまう人も少なくないので、そういう人たちには説明するのも面倒くさいというのもあったのだが。まあ、しかし、話をした方が有益な話が返ってくることが多いので、話せばよかったと思うけど。

体得信仰は歴史の実証史研究系の人には結構今でも生きている(私は理論の検証という意味と差別化するために若いころから出来る限り、考証という言葉を使って来たが)。なので、方法論を嫌って、方法は研究のなかに埋め込まれているという考え方の人も少なくないと思う。でも、それって掘り出してくれなきゃ、いつも議論している同世代の仲間内以外、分かんないじゃん。これと対比的なのは、コースワークで、経済学では昔、近代経済学と呼ばれて、今は主流派と自称しているグループがアメリカのそれに飛びついていったのも故なしとはしない(ただ、誤解のないように言っておくと、いわゆる近経の研究者が全員、コースワークを無条件に良いものと考えているわけではない)。東大だと経営もこれに乗った。労働もやろうと思ったけれども、失敗したという噂は聞いた。

方法論は気を付けないと、方法論のための方法論に陥っちゃうけど、そこのところに焦点を当てて、うまく深めていく研究会を組織していったのが酒井泰斗さんの一連の試みだと思っていて、私もそこから多くのことを学んで、ここ数年、研究会での発言はそういう視点からの「何を明らかにしたくて、どうやるの?」というタイプのものが多くなった気がする。

さはさりながら、歴史研究では読んだ資料の数がものをいうという側面があり、これは完全に体験なんだけど、逆に言えば、ここから先は体得するしかない、というのと、もうちょっと方法論で詰めることが出来るというのを区別してアプローチすればよいんだと思う。これ、労働領域で言えば、要は体得=OJTで、しかし、OJTをより有効にするためのOffJTの組み方もあり得るよねという技能形成の話になるかな。
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