佐口先生の「制度派労働研究の現代的価値」『社会政策』創刊号、2008年を改めて読み返して、いろいろと感慨深かった。昨年こそ博士論文を書くので出席できなかったが、通算で4,5年は佐口先生のゼミに出席していたし、折に触れて話を聞く機会もあったので、感想はいろいろある。勝手なことを言えば、この論文は編み込み式で行間にかなり深みがある箇所が結構あって、東大関係者以外には分かりにくいのではないかと思う。完全に余談だが、稲葉振一郎さんが濱口先生のエントリに反応され、その後、労使関係論を書くにあたってこの論文に当られたことは、自然と理解できる気がする。と書いたものの、本音を言うと、最初はすごく意外だった。東大経済の大学院の内輪話で言えば、私は直接、お会いしたこともないけれども、稲葉さんのやや遠い後輩に当るわけだが、稲葉さんはいわゆる労働プロパー(ないし、社会政策・労働問題研究)から離れていった人だと理解していたからだ。

 さて、本題の佐口論文だが、注目したいのは制度派労働研究に欠落していた理論領域に「雇用制度」を提案しようと試みていることである。実は佐口先生の雇用制度の理論的な意味を理解するのは難しい。まず、原理的に考えれば、雇用関係は雇主と被用者の一対一の関係であり、ここから経営者と労働者の関係に行くのには距離がある。現代の雇用は経営者に雇われるのではなく、企業に雇われるのである。実務上は人事担当者ということになるだろう。実は、この間の微妙な距離に、佐口先生が気づいていないわけがない。ちゃんと「経営者」と「経営」を分けて使っている。したがって、「制度」派という用語には、個人の問題を扱っているわけではないという強い含意が込められているのである。だからこそ「雇用関係」という言葉を使わなかったのではないかと考えられる。

 私の知る限り、90年代後半以降の東大経済では森建資先生の『雇用関係の生成』が絶大なる存在感を持っている。少なくとも東大大学院(経済)出身者にとって森先生は卓絶した存在だった。しかし、森「雇用関係」論は必ずしも影響を与えたとはいえない。『雇用関係の生成』を引いたものはいくつかあるけれども、それを掘り下げたなと私が感じたものは現在のところ、一つもない。このような状況に陥っている原因の一端は、森先生のバックグラウンドにあるコモンローの議論が普通の人には馴染みがないため、なかなか理解できないという点にある。正直に言うと、私も2年くらいよく分からなかったし、今でもlawの意味は原理的な部分でよく分からない。

 佐口論文に戻って言うと、この論文における雇用制度論の核は経営の中での指揮命令系統を遵守させるために、生活を安定させなければならないというロジックである。しかし、指揮命令にしても生活保障にしても森雇用関係論で既に触れられている論点である。つまり、何れも雇主と被用者の一対一の雇用関係でも成立する話なのである。したがって、組織に雇われることとは直接に結びつかない。いや、むしろ、組織における雇用と一対一の雇用をどうブリッジするかは実はまだ誰も解いていない問題なのである。

 ここが核心的な論点であり、やや弱いところであるようにも思える。本来、生活規範との関連で対比されるべき概念は、一対一の雇用と組織における雇用ではなく、雇用と請負である。雇用と請負の違いは森先生だけではなく、マースデン先生も書いているし、一般的に理解されていることだろう(多分、少なくとも研究者の間では)。もちろん、この事情を佐口先生も十分に承知しており、だからこそ、請負制度の下でのブルーカラーという命題が出てくるのである(このあたりは完全にマニアックな感じである)。なお、いうまでもなく、労働問題研究では氏原テーゼと呼ばれる(日本経済史では兵藤テーゼと思い込まれている)「間接管理から直接管理へ」という命題がこの議論の背景にある。ただし、このテーゼと同じ現象自体は日本以外(たとえば、ドイツ)でも発見されてる。私は紡績業を研究してきたので、日本では歴史的にブルーカラーが請負的なものから雇用へと移行してきたという考えには賛成しない。なお、私の見解とは別に、研究史上でも日本において間接管理から直接管理への移行が本当に起ったのかどうかについては論争があり、いまだに決着がついていないのである。

 組織における雇用と一対一の雇用の関係を詰めていくことが出来れば、制度派労働研究の本流である労使関係論だけでなく、経営学などとの対話(あるいは接続)も可能になるだろう。その意味では議論の当否はともかく、雇用制度論の意図はよく分かる。そのためには今後とも「雇用」を掘り下げて考える必要があるだろう。
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