床屋政談は続く。

マシナリさんから素晴らしいご指摘をいただいたので、少し論点を深めて書きたいと思う。発端は濱口先生の『新しい労働社会』の第4章について私が反論を書いたところから始まる。

『新しい労働社会』の提唱する新しい産業民主主義について
濱口先生によるご紹介

濱口先生のところにコメントを書いたように、私の意図は両方の極を作ることだった。マシナリさんが最初に書いてくださった記事は、まさにその点を正確に捉えてくださっている。第一段階において、私が考えたように二人でキャッチボールができたことをマシナリさんが評価してくださった形になったわけだ。そして、今やマシナリさんから頂いたコメントによって議論は第二段階に入る準備が整ったと考えている。

実は、大石さんとのやり取りで、私は中長期的なことを考えていると書いたにもかかわらず、マシナリさんへのエントリではむしろ短期的な戦術という面から論じてしまった。単純に自分が考えていたことを忘れていただけである。ただ、一つ言えることは、大石さんからもマシナリさんからも同じ問題を提起されたにもかかわらず、ちゃんとお答えしなかったということである。それは何回か前に書いたけれども、自分が主たるプレイヤーでもないのに、政策提言をするという研究者としての姿勢を私が徹底的に嫌い、というだけの理由による。でも、考えてみれば、別にブログは所詮書き流しなので、そう硬く考える必要もないし、何よりもきちんとお返事したいので、床屋政談としてお話の続きをしてみたくなってきた。

完全自主路線の私の立場から濱口さんの極に歩み寄るためには、まず、強制による自主性も自治に含めてよいのではないか、という疑問を投げかけることから始めよう。労働の分野では古くからQCサークルなどの自主管理運動に対して、あれは半ば強制されたものであり、本当に主体性を発揮したものではないという批判がなされてきた。また、地方改良運動という、戦前の内務省が農村に向けて展開したキャンペーンでも同じことが指摘されている(たしか、宮地正人先生)。論理操作だけでいえば、こうした議論はまったく正しい。ここから教育を重視する私の立場は必然的にある種の強制を伴うのではないかと詰めることが出来るのである。

簡単に結論を言うと、教育にはある種の強制が必要だと私も考えている。一般には、受験戦争の詰め込み主義が長いこと批判されてきたし、それに対して、極端な例では昔の素読の効用を持ち出したりして、反論もなされてきた。私は東大の大学院に8年いたので、中には受験エリートも見てきたし、彼女または彼らの中には他人の学説を勉強するだけで、その枠組みを問い直すことなく、安易に納得してしまう人がいることも分かっている。しかし、問題は詰め込む内容や詰め込むこと自体にあるのではなく、詰め込んだ内容を自分で自由に使いこなせないことにあると思う。最終的な理想は、いくつもの異なる考え方を認識し、それを自由に選択、あるいは改良する能力を持つことだろう。その能力を身につける過程において、程度問題ではあるが、必然的に強制を伴うと考えられる。

なぜ、一見、関係ない教育と強制の話をして、自分の議論を叩いたかというと、程度問題としての強制を認めることは、強制的な代表制を許容できる道を開くからである。逆に言うと、前段落の議論を踏まえれば、当然、強制的代表制もその運用次第で、自主性を発揮する制度たりうるのではないかということになるのである。

実際に一律に強制的な代表制を施行するには、いくつかの職場における労使関係の類型を想定しておいた方が良いだろう。たとえば、労働組合が既に存在している場合、労働組合がまったく存在しない場合。存在していて、ある程度、機能している場合、機能していない場合(ここでは仮に機能しているか否かはリーダーシップを発揮するリーダーがいるかどうかにしよう)。実際にはこれを見分けるのさえ、外部からでは難しいのだが。もちろん、もっと現実を知っている方が然るべき分類をするべきだろう。ここは仮の話だ。

労働組合が存在しない場合、そもそも代表と代表が話し合うという形式が意味あることを強制的に知ってもらうという点において、強制代表制には即効性があるだろう。ただし、そこから、本格的な自主活動を展開できるところは多分、一部だと推測される。でも、やらないよりはいいかもしれない。組合があっても機能していない場合、これ以上、悪くならないからやっても構わないだろう。

組合があって機能している場合、中村プランのように非正規にまで自主的に拡延していくことに対して、そうした阻害にならず、促進剤になる仕組みが作れるならば、その限りにおいて強制代表制も歓迎すべきだろう。ただ、促進剤になるという見通しはあまり現実的ではないかもしれない。むしろ、濱口さんが仰るように、不利益分配の仕組みに焦点を当てて制度を作ることを前提とするならば、もはや身分制度があることを全面的に認めて、身分ごとの代表を出す方法を採った方がよいのではないかと思う。まったくの山勘だが、一般に利益配分よりも不利益配分の方が、利害対立が激しくなるのではないか。もし、そうであるならば、その対立を認めてしまって、どこで妥協をするかに問題を絞った方がいい。労使交渉ではなく、事実上の管理者層・正規層・非正規層による身分間交渉である。

制度の順番としては、政労使の鼎立構造の確立が先であって、それが出来れば、私の最初の完全自治路線も非常に重要な意味を持つ。要するに、労働組合がうちはこうやって、これだけの人を供給できますけど、こんな強制的にやってどうするつもりですか?といえるからだ。もちろん、そういえるためには、そういう人を供給できる仕組みを組合が作らなければならない。ただ、これが本当に今の組合に出来るかといわれれば、私も実はあまり自信がない。

そうなると、私が提起したリーダーの育成(運用者の育成と言い換えた方が適切)の問題をどうするか、どこかで改めて考えなくてはならない。現実には、どこが負担するにせよ、教育を行う者をどこから調達するのかなどを含めた諸費用をどこからもってくるか、考える必要がある。おそらく、政策としては完全にそこまで手厚く制度設計するのは、人材面でも、費用面でも、厳しいだろう。そういう意味でも、自治路線は大事なのだ。

何れにせよ、とりあえず制度を作るという箱物行政では、実際に施行されてから困るので、パイロット調査を予めやっておく方がよいだろう。といっても、普通の企業にそれを引き受けてもらうのは難しいから、補助金をつけるなり、あるいは社会的評判をあげるようにするなり、なんらかのインセンティブをつける工夫は必要である。これも先ほどの類型別、さらには規模別等に分けて、何社(あるいは何職場)かで実験した方がベターだ。実験だけだったら各方面の合意も得られやすいだろうし、成功させれば全面的な法案成立も可能だろう。失敗したら?もちろん、そんな好条件下で成功できないようなものは法案自体をやめた方が良い。
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コメント
上手くいってる見て…
やはり、先に上手くいっているところを参考にして、自分達も自発的にそのやり方を取り入れる、という形で進んで行くのがいいのではないでしょうか。まあ、時間が掛かると思いますが、結果的にはそっちの方がいいと思う
2009/08/23(Sun) 21:09 | URL | いや | 【編集
時間もそうですけど、最後はお金と人手です。この場合の人は、お金で換算できる、工数と捉えていただいても構いません。私はこっちが利くだろうと思ってます
2009/08/24(Mon) 00:36 | URL | 金子良事 | 【編集
コスパ:
となると、それだけの手間を掛けても、やる意味がある、という認識を持てるかどうか、ということかも知れませんね。
2009/08/24(Mon) 06:30 | URL | いや | 【編集
そうですね。あとは集めてこれるかどうか。
2009/08/24(Mon) 09:55 | URL | 金子良事 | 【編集
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2009/08/14(Fri) 20:44:38 |  machineryの日々