2019年10月29日 (火)
この二週間くらい、ちょうど学会の二次会(MさんとSさん)、この前のAダッシュの講座、今日のMinamiこども教室のボランティア研修会の三つを聞いて、いろいろ私の中では整理できたので、ここにまとめておきたい。というか、本当は明日の「社会政策」の講義の準備をするために泣く泣く懇親会をあきらめて帰って来たんだけど、このテーマはそこにもつながるし、また、書いとかないと忘れるので、まとめておこう。
教育にせよ、支援にせよ、あるときに権力(言葉が強ければ、単にパワーでもいい)を使わなければならない仕事の場合(今日は面倒なのでケア的教育で一元化しておく)、そのことに何のためらいもない人は、実は対話可能性が低い。現場にいると、こういう人は少なくない。教員、相談員(役所の人も含む)でもそうだろう。本当に重要なのは、コンパッション、他者を受け入れる力である。人によっては愛という人もいる。これをちゃんと持ち続けられる人は意外と少ない。
こうしたビーイング、あり方の問題においてなかなか他者(権力を使うのにためらいのない人)をコントロールできないし、またすべきでもない。あるときにその大切さを気がつくのを待つほかない。でも、逆に言うと、このコンパッションを持った人はとても貴重である。特に現場の人こそそういう思いを持っているので、勢い強調点はここになる。
もう少しテクニカルなことを言うと、コンパッションは基盤となるもので、その上にテクニカルなことが来る。会話の仕方を含めたコミュニケーションの取り方、教え方などである。テクニカルな不足分はコンパッションで超えていくことが出来ることもあるし、それどころかテクニックがないことがコンパッションを育んでいく、そういうきっかけになることさえもある。
ただ、コンパッションとは別の次元でテクニックがあることも事実で、それをないがしろにしてはいけない。テクニックよりもコンパッションが大事だと、ベテランの教員や支援員が言うときに、実はこの点が見逃されている。というよりも、おそらくは本人もこの違いを意識していないのではないかと思う。
ケア的教育には、どこまでいっても、完全な正解といったものは存在しない。根幹のコンパッションを忘れないように心を尽くして、少しずつ経験が積み重なって、それが自信として積み重なっていく、というのが普通のパターンだろう。このときたしかに重要なのはコンパッションなんだけど、その経験を共有できないかというと、そうでもない。また、経験のなかに埋め込まれたテクニックを使うことで自信を深め、よりコンパッションを深めることが出来る。
人間は決して完ぺきではないので、完全な愛情を示すことは出来ないけれども、それでも不安があると、相手には愛情とともに不安も伝わる。ケア的教育や支援において重要なことは、相手が安心感を得られることで、それは見守っていることであったり、そういうことを通じて受け入れられていると感じられることであったりする。愛情深い人の場合、コンパッションが足りないということはほとんどないが、経験やテクニックが足りないということはあり、それがコンパッションが深いゆえにその人を不安にさせることがままある。こういうときに、コンパッションがあるから、愛情があるから、それで十分なんだというのは適切な答えではない。
では、先人の経験やテクニックをどうやって学んでいくのか、ということになるが、その前にテクニックが二種類あることを考察しておく必要があるだろう。本当にテクニカルな教授法と、コンパッションと切り離すことが出来ないテクニックである。後者は徹底的な「ケース」を聞いていくしかない。具体的な場面で、どういう状況認識をして、どういう風にやったのか、というようなことであり、どういう風にやったのかをどういう風にやるのかに置き換えれば、それはそのままケース会議である。やったことを語れるのは経験者だけである。
本当にテクニカルな部分については、それこそカリキュラム論や職業訓練のプロの領域だし、何より具体例がないと、分かりづらい。今日の研修では、12÷3をどう教えるのかみたいな話が出たけど、それはかなりの部分はテクニカルな領域。ちなみに、私は具体的に「みかん12個を3人で分ける」「たこ焼き12個を3人で分ける」を考えさせるでした。その含意は長くなるので、今日はやめておきます。
教育にせよ、支援にせよ、あるときに権力(言葉が強ければ、単にパワーでもいい)を使わなければならない仕事の場合(今日は面倒なのでケア的教育で一元化しておく)、そのことに何のためらいもない人は、実は対話可能性が低い。現場にいると、こういう人は少なくない。教員、相談員(役所の人も含む)でもそうだろう。本当に重要なのは、コンパッション、他者を受け入れる力である。人によっては愛という人もいる。これをちゃんと持ち続けられる人は意外と少ない。
こうしたビーイング、あり方の問題においてなかなか他者(権力を使うのにためらいのない人)をコントロールできないし、またすべきでもない。あるときにその大切さを気がつくのを待つほかない。でも、逆に言うと、このコンパッションを持った人はとても貴重である。特に現場の人こそそういう思いを持っているので、勢い強調点はここになる。
もう少しテクニカルなことを言うと、コンパッションは基盤となるもので、その上にテクニカルなことが来る。会話の仕方を含めたコミュニケーションの取り方、教え方などである。テクニカルな不足分はコンパッションで超えていくことが出来ることもあるし、それどころかテクニックがないことがコンパッションを育んでいく、そういうきっかけになることさえもある。
ただ、コンパッションとは別の次元でテクニックがあることも事実で、それをないがしろにしてはいけない。テクニックよりもコンパッションが大事だと、ベテランの教員や支援員が言うときに、実はこの点が見逃されている。というよりも、おそらくは本人もこの違いを意識していないのではないかと思う。
ケア的教育には、どこまでいっても、完全な正解といったものは存在しない。根幹のコンパッションを忘れないように心を尽くして、少しずつ経験が積み重なって、それが自信として積み重なっていく、というのが普通のパターンだろう。このときたしかに重要なのはコンパッションなんだけど、その経験を共有できないかというと、そうでもない。また、経験のなかに埋め込まれたテクニックを使うことで自信を深め、よりコンパッションを深めることが出来る。
人間は決して完ぺきではないので、完全な愛情を示すことは出来ないけれども、それでも不安があると、相手には愛情とともに不安も伝わる。ケア的教育や支援において重要なことは、相手が安心感を得られることで、それは見守っていることであったり、そういうことを通じて受け入れられていると感じられることであったりする。愛情深い人の場合、コンパッションが足りないということはほとんどないが、経験やテクニックが足りないということはあり、それがコンパッションが深いゆえにその人を不安にさせることがままある。こういうときに、コンパッションがあるから、愛情があるから、それで十分なんだというのは適切な答えではない。
では、先人の経験やテクニックをどうやって学んでいくのか、ということになるが、その前にテクニックが二種類あることを考察しておく必要があるだろう。本当にテクニカルな教授法と、コンパッションと切り離すことが出来ないテクニックである。後者は徹底的な「ケース」を聞いていくしかない。具体的な場面で、どういう状況認識をして、どういう風にやったのか、というようなことであり、どういう風にやったのかをどういう風にやるのかに置き換えれば、それはそのままケース会議である。やったことを語れるのは経験者だけである。
本当にテクニカルな部分については、それこそカリキュラム論や職業訓練のプロの領域だし、何より具体例がないと、分かりづらい。今日の研修では、12÷3をどう教えるのかみたいな話が出たけど、それはかなりの部分はテクニカルな領域。ちなみに、私は具体的に「みかん12個を3人で分ける」「たこ焼き12個を3人で分ける」を考えさせるでした。その含意は長くなるので、今日はやめておきます。
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