あんなにもひどいエントリにかかわらず、稲葉さんからコメントいただき、さらに、濱口さんに取り上げていただき、大変恐縮してます。というわけで、反省文を提出したいと思います。

まず、社会政策の源流ともいうべき貧困問題、本家イギリスで花開いたのは正に数量的な意味で無視し得ない存在であるということが19世紀末に暴露されたからです。では、日本でも同じ問題意識で捉えられたかというと、やや違う気がします。内務省の役人たちは自分の仕事との関係から注目していったわけだし、金井延なんかはヨーロッパで起きている事実が日本にもやがて起こる、そして、その兆候は現にスラムやなんかで起こっているという問題意識で、自分で探してきたわけです。私の感覚では、やはりスタートでは少人数という意味での「マージナル」と呼んでもそんなにおかしくないかもしれない。ただ、本家のシュタインも、それを学んだ金井も、そういう社会問題が量的にも大きなものになっていくと考えていました。

ちょっと遠回りになるかもしれないけれども、私が長い間、兵藤先生の『日本における労資関係の展開』に抱いてきた違和感は、日露戦後くらいに重工業の熟練工は日雇いみたいな層からテイクオフしていくんだと主張されていることでした。この見解は中川清先生がしっかりと受け継いだ。中川先生は社会政策プロパーの生活史の大家ですから、今や通説といっていい。なんで、そんなことに疑問符を投げかけるかというと、大正期に広まった福利厚生制度は思想的には労働者を下層階級として前提においている、と私が理解しているからで、このことは博論のなかでも実は強調したいことでした。ただ、この時期にはもう雇用労働者の数は圧倒的に大きくなっていました。

社会政策がもっていた単純な資本制社会の枠組み。労働(者)と資本(家)で社会のきわめて基幹的な部分が構成されているという考え方はその後もずっと継承されていきました。今は資本なんて言い方を使うのは古風なマルクス経済学者や批判派経営学の方たちだけでしょうけれども、こういう二項対立的な考え方はずっと生きている。管理者と労働者で線を引く労働基準法もその一つです。戦時中までは職員と職工で線を引いていた。賃金統制の管掌は、職員は大蔵省、職工は厚生省ですからね。それが戦争末期には厚生省に一本化されていきます。この戦時から戦後初期にかけてのこのあたりの混乱時に「労使関係」という言葉も作られるわけです。そんなことを正面切って断らなくても、ブルー=労働者、ホワイト=資本という括っても通用してきました。それは何のことはない、工場内の工務(今は製造とか生産というのかな)系統の序列は分かりやすくて、ブルーのトップが管理者層に入っていて、ホワイトはその上って理解しても大体よかったから。

こういう歴史的文脈で考えると、いわゆる東大社研グループのなかで1950年代に貧困研究が労働問題研究から徐々に分離していったのは歴史的必然かな、という気もしてきました、書いてる途中で(我ながら、いい加減だな)。

多分、大正中期くらいから、要するに、工業化が進んでくると、労働者と資本家で社会が構成されているという感じ方は、実際にもかなりフィットしてきた。そういう意味ではマージナルじゃなくなっていくんですね。それと同時に貧困問題の捉え方も、景気循環や経済構造の変化によって生まれてくるんだという新しい考えが定着してくる。だから、正確にいうと、この時期の貧困問題には二つの系譜が流れているんです。

ここで社会事業研究の系譜が出てくる。正確にいうと、その前の慈善事業との繋がりが重要になってきます。社会事業関係が問題にする貧困は、経済学的な文脈の失業問題なんかを原因としてなくても構わない。むしろ、援助すべき貧困状態であることがポイントです。戦前の社会政策はそういう意味ではたしかにごった煮でした。だから、今、武川さんや玉井さんが社会学的社会政策を強調したい気持ちもよく分かる。ただし、気持ちが分かるということと、その主張している内容を受け入れるかどうかは全く別です(この文脈に限定すれば、「別」ではなく「逆」と書きたい(笑))。

社会事業から社会福祉の流れが、資本制社会を前提とした社会政策と同じように、非常に大きなターニングポイントを迎えたのは1970年代のことです。社会保険の充実、皆保険や皆年金をどう考えるかという問題があるので、1960年代じゃないの?という横槍が入りそうなのは予測できますが、保険は予防策的側面が強いから、援助という文脈で語るときはあんまり拘泥しなくていいと思います。そういう意味で1970年代が大事。高齢者福祉の問題が少子高齢化社会という文脈でクローズアップされるようになってきて、現在に至るわけです。

何れにせよどっちも今ではマージナルとは言ってられない。私のもともとの発想は、一番はじめに持っていた学問的性格は今でもなんか縛りになっているんじゃない?というものでした。その話と中西・東條本の話は関係ないんじゃないか。言われる前に言っておきますが、関係ありません。混同しました。すみません。

お二人の話は、1950年代から格段に実証水準が高まるなかで、研究はどんどんミクロ化していく。そのときにどうやって全体をパーッと展望することが出来るのか、あるいは、全体とどういう関係にあるのかを忘れちゃいけないというような問題意識の話ですね。下田平先生の話もこの文脈上に捉えても、それなりに説明できると思います。ただ、その対象をマージナルというか、マイノリティを追求していくという話になってくると、別の切り口が必要で、それは1970パラダイムで説明できるのか分かりませんし、もし出来るのならば、東條さんはそこにもうまく位置づけなきゃいけないなと思いますが、今後の宿題ということで。
スポンサーサイト
コメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事へのトラックバック