お待たせしました。続きです。

1920年代の中ごろになると、富士紡において工場間を連携させる争議が展開するようになった。たとえば、川崎工場の争議が不利になったときに、大阪工場で争議を起こしてダメージを与えるというような戦術が行われるようになる。これは争議戦術の革新である。1910年代までの富士紡の組合、とくに1920年の争議後、解散してしまった押上工場の組合は、富士紡の他工場との連携をとるというよりは、江東地区の中心的な地位であった。実際、本所支部に何人も幹部を送り出しているし、財政的にも豊かであった。何かの義捐金を募ると、友愛会内の何れよりも多額を拠出する。それも一桁違うのだ。だから、組合幹部が運動家としての能力が低かったわけではない。

押上工場の組合は実は近くの小名木川工場の組合と連携することはあったが、googleでたしかめて頂ければ分かるとおり、現在の半蔵門線の駅で見れば、二つの最寄り駅は押上と清澄白河、電車で10分ちょっとの距離だ。歩けない距離でもないご近所である。ただし、同一企業の組合が連携して争議をすることの効果を知るには十分であったろう。おそらく、こうしたことから、徐々に戦術が拡張されていったと考えるべきであろう。

そもそも、イギリスの職業別組合を考える場合、もっとも原始的な形態は地域別であった。この場合、地域別というか、産業集積という問題を考えないといけない。紡績(綿業)を中心に産業が発展していくという説が日本経済史にも西洋経済史にもあるのだが、長いこと、空間的距離の近接さは重要なマターだった。だから、ランカシャー、オルダムといった産地で組合がまず出来、それが徐々に全国的な連合をなしていく、というのが発展の順序になるわけだ。

日本の場合、大阪や東京などで紡績地帯というものは出来たが、それ以上に、全国いろいろなところで紡績工場が存在した。特に、総同盟内にあった繊維の産別組織が当初、押上工場壊滅以前は東京(江東地区)を中心、後に大阪を中心としていたことは記憶しておいて良いだろう。しかし、日本の特徴として重要なのは、各工場が企業の合併により、大企業に統合されるという事態が明治後半には見られたということだ。ただし、大正中期までにこうした方針を明確に採っていたのは鐘紡、東洋紡(大阪紡と三重紡の合併)、大日本紡(尼崎紡績、東京紡績、攝津紡績の合併)であり、富士紡は紡績大企業の中では当初、そういう戦略を採らず、自社工場を拡張する方針であった。

事実としてこういう前提があったからこそ、工場の連携が意味のあるものだった。戦前は組合運動をやったことによって職工を首にすることも出来たが、解雇にせずとも昇進させたり、転勤させるという方法は存在した。転勤については富士紡の事例を博士論文で実証した。あまり知られていないかもしれないが、転勤を利用して、オルグ活動をやるということも組合の戦術であった。ちなみに、二村先生も鐘紡や富士紡の組合は例外として、事実上の企業別組合と書いておられる(正確には企業別組合ではないが、意図されることは私もまったく同じである)。

事業所別組合が統合される、そのプロセスでは上部組合の役割が大きかった。すなわち、富士紡の組合は皆、もともと総同盟の支部であった(なぜなら、総同盟が分裂する前から各工場に組合があったので)。当時の総同盟の棟梁は松岡駒吉である。その松岡は1920年代から企業別組合という構想を持っていたという説があるらしい(私は原資料に当って確認していないし、何で読んだのかド忘れした。誰の説かご教示願えれば幸いである)。ただ、私はおそらく、松岡は繊維産業から多くのことを学んだと思っている。

松岡は研究も少なく、今後、掘り起こされるべき人物である。近年では、戦後の組合指導者のオーラルヒストリーの中で彼らに強い影響を与えたという証言が数多く残されている。何れにせよ、企業別組合は企業側のロジックからではなく、組合側のロジックから説明されるべきものである。そして、具体的には上部組合の存在をどのように考えるかが重要な論点であると私は考えている。

なお、私の説は、

・組合内の左右対立をどう考えるか?
・産業報国会がどのような影響を与えたのか?
・工職混合組合をどのように考えるのか?

といった問題に答えなければならない。・・・のは知っているのだが、今、忙しいし、当面、私の研究テーマと関係ないので、今回はこのあたりで終わりにしよう。

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