1950年代の最大の謎はなぜ大河内先生によって社会政策が初めて社会科学として確立した、というような見解が成立したのか、ということである。いわゆる、大河内理論とは「社会政策とは総資本による総労働の保全政策である」というものだ。ここからある意味、社会政策=労働政策、という中西先生の定義に繋がっていくのだろう。

 今まで誰もあまり注目してこなかったが、大河内理論は新しい社会政策というより、もっとも古典的な社会政策の焼き直しという側面が強かったのではないかと私は考えている。日本において学問としての「社会政策」は金井延によるシュタイン説の輸入から始まる。シュタインは言うまでもなく、マルクスの先駆者の一人で、1840年代にフランスにおける各種の社会運動を観察し、やがてドイツに起り得べきものとして「社会問題」を指摘した人である。簡単に言えば、労働と資本の対立としての階級問題である。金井は社会政策として①階級問題への対応としての経済政策、②社会改良主義の二つを掲げたのである。シュタイン自身は日本では憲法視察に行った伊藤博文を温かく受け入れたことで知られる。その後、日本からの訪問者が次々訪ねる「シュタイン詣」に向かうほどだった。そんななかでシュタインを訪ねた金井は、彼から日本人は皆、憲法の関連で私を訪ねてくるが、私の専門は経済学であり、そのことを聞きに来たお前は珍しいという趣旨のことを言われる。提唱者のシュタインの定義からして、社会政策は初めから経済政策の応用分野だったのである。

 問題は経済政策と社会改良がどのような有機的な関連を持っているのか、ということであるが、おそらく、あまり関係ないのだろう。大河内先生は、ある意味では経済政策としての社会政策というもっともプリミティブな見解を補強し直したのである。すなわち、大河内先生は革新者であるよりも、もっとも正統な金井延の継承者であったといえる。大河内先生といえば『独逸社会政策思想史』で知られており、あるいは「社会政策の形而上学:エドゥアルト・ハイマンの社会政策論を評す」が重視されている。しかし、忘れられた、あるいは、あの平賀粛学事件をめぐって封印された、一つの重大な事実がある。すなわち、河合栄治郎の金井延研究の資料を準備したのは大河内先生であったということである。つまり、大河内先生は社会政策輸入初期の金井先生のご研究をその当時、もっとも丁寧に分析した研究者ということになる。結果的にそのことが知らず識らずのうちに大河内先生に影響を与えたのではないかと思う。

 大正期の社会政策学会で問題になったのは、②の社会改良主義を学会全体の方針として堅持すべきかどうか、ということである。要するに、河上肇を代表として、いわゆるマルクスに共感する人たちが増えてきて、社会改良派は守旧派ということになってしまった。河合先生は社会政策学会にはご熱心ではなかったけれども、こういう流れの中で、②の問題、すなわち、社会政策の思想面の追及を行おうとした方である。大河内先生からみると、河合先生や福田徳三先生の生存権といった②の思想研究は魅力的ではあるけれども、客観的な社会科学足りえないのではないか、という問題意識をもたれたのだと思う(『社会政策四十年』61-62頁)。しかし、二人の学問的な方向が別ベクトルを向いていたとしても、そもそも河合・大河内はともに正統な金井社会政策論の継承者であったといえよう。

 言うまでもなく、河合先生については例の平賀粛学以来、どのような形で評価するにせよ、事件をめぐる各人の人間性ということが大きなしこりになってしまった。河合先生の継承者は、私の知る限り、民社党のブレインだった関嘉彦先生や防衛大学校長を務めた猪木正道先生がいらっしゃるが、遺志を引き継いだ彼らも運動・思想として社民主義を決して日本に根付かせることができたとは言い難い。21世紀になって河合栄治郎の再評価がボツボツと出てきているが、皆、政治の学問分野(政治史、思想史、政治学等)に流れてしまい、社会政策の領域では断絶したままである。

 1940年代までの社会政策研究は様々な水脈があり、河合先生は亡くなっていたものの、1950年代にはまだご存命の有力な先生方がいらしたにもかかわらず、なぜ、大河内先生ばかりに議論が収斂していったのだろう。これは一つの謎である。その一つの答えは、マルクス、特に講座派の包括性であったと考えられる。したがって、マルクスをめぐる解釈論争に力を注いだ人が多くいた。それと他の一つは、立場の違いを超えて、もう理論よりも現実を知りたい、ということで現状調査や歴史研究へと重点がシフトしたことである。
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