ここのところ、鉄鋼関係の方にインタビューをしていて、前々から感じていたことを改めて実感している。それは日本では、ブルーカラーやホワイトカラーに対して公平な価値判断が存在している、ということである。端的に言えば、仕事が出来るかどうかである。

世間的な建前としてまず、学歴による差が存在している。そして、その建前が現実の制度に大きな影響を及ぼしていることも事実であり、実際の処遇で差をつけられることもあるだろう。だが、組織内の身分(status、どうしても抵抗がある人は地位と理解してくれればいい)、賃金の格差といった条件とは別に、単純に仕事が出来るかどうか、という判断基準が存在するのである。

これは歴史的に見ても、もともとブルーカラーに強かった。昔の熟練工は小難しいことなんて関係ない。要するに、腕が立つかどうか、である。理屈は要らない。日本の場合、技術者が現場に張り付くことは一般に見られる現象だが、そこで彼らはいきなり、トップと認められるわけではない。新人はまず、ベテラン熟練工から非公式に審査を受ける。この査定はもちろん、給料に反映しない。何と言っても、査定する側は身分や職制の点ではしばしば下なのである。

技術者の方たちの話に出てくるブルーカラーの人たちは優秀の一言に尽きる。評価は「できる人だった」というものである。そして、お話には「高卒だけれども」と必ず言い添えられる。だが、これは高卒であることによってあらぬ誤解を受けぬように配慮されているのであって、差別的にいうわけではない。逆に、尊敬していることがよく分かる。尊敬がやや強ければ、一目置く、という表現との中間くらいと捉えるとよいかもしれない。

高度成長期以降の技術革新を日本のブルーカラーはかなり積極的に受けてきたといわれる。もちろん、局地的に自分の培ってきた技能が失われる職種の者は辛い思いをしてきたし、職場で居場所を失うということもあった。しかし、彼らは新しい方法では仕事が出来ないと認識している限りにおいては徹底的に抵抗する。そして、技術者たちも彼らに認めてもらえるように努力をする。

ここで書いたのはインフォーマルな評価基準である。こういうものがあることはみんななんとなく知っているけれども、なかなか論文には書けない。体系的に説明するのが難しいからである。

オチなくて困った。小賢しくまとめず寸止めにしよう。
皆さん、心の中でその先を描いてみてください。
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