今回のエントリは多分、その筋の人たちにとっては衝撃的な内容だと思います。しかし、あえて書きます。一連の濱口先生の「働くことを報酬にしてはならない」論で攻撃されていたのは、「やりがい搾取」の雇う側の人たちでしたが、私はまったく逆に、ある種のボランティアの人たちに批判を加えようと思います。そういう人たちがいるからこそ「やりがい搾取」が起こるんだと言いいたいのです。なお、私は原理原則を分かりやすくするために、かなり極端な例を使って説明しています。

19世紀末に社会事業が巨大化してくると、必然的にある程度の官僚化が起こります。ここでの「官僚化」とは社会事業の専門ノウハウをもった人が恒常的に必要になる事態を意味します。そうなると、手弁当ではやってられなくなるので、常駐の人を雇いたくなります。いわゆる専従です。これとまったく同じロジックが労働組合でも起こります。専従の人も生活をしなくてはならないし、組織(あるいは仲間)はその人に深く活動にコミットして欲しい。こうして、社会事業の専門家というのが段々、生まれてきます。この段階でいわゆる専門家は批判の矢面に立たされることになります。金をもらってやるとは何事だ、と。そのとき、自分達は正当な報酬を受け取っているのだと頑張ったのがメアリー・リッチモンドたちです。

今でもボランティアをやっている人の中には、報酬をもらわずにやっていることにアイデンティティを感じ、実際、そのことを動力にして働いている(奉仕している)人たちがいます。さらに、多くの社会福祉施設はこういう人たちの働きを最初から当てにしないとやっていけない厳しい現実があります。そして、その問題に関わっていない人は、何も参加しない自分たちよりは彼らが立派であると相対的に評価を下しがちなので、正面切って、そういうボランティアの方々を批判しません(興味関心のない人は除いてます)。ですが、もし、そうしたボランティアの方が報酬を貰わない、あるいは少ないことに対して、返す刀で報酬を貰っている、あるいはちょっと多めに受け取っている他者を貶めるようであれば、その時点で彼らこそ批判されるべきなのです。ここがポイントです。労働=贈与論は互酬を前提にすれば、一方的な搾取になるとは限りません。あくまで互酬なのです。

ここでは雇う側(組織)の給料支払い能力をとりあえず、捨象しておきます。前段落で書いたとおり、その問題が決定的なんだということは私にもよく分かっていますが、現実に重要な問題と、本質を考えるときに重要な問題を見誤ってはダメです。基本的な原理原則で言えば、働いた分の報酬はどんな人であれ、与えるべきなのです。どうしても無償で奉仕したいという人はその後、全額寄附すればよいのです。

いかなる場合でも報酬を拒否するという態度こそが「やりがいの搾取」を生み出す究極の元凶なのです。実際に他人に直接的な不利益を齎しているという意味では、「やりがいの搾取」をする雇い主たちに焦点を定めるべきかもしれないが、間接的に「やりがいの搾取」という理屈を成立させる土壌を作っているのは報酬を断固として拒否する人たちである、というのが私の意見です。報酬を断固として拒否するのは互酬の否定です。前回のエントリのように、互酬の例に感謝の交歓を採るならば、相手からの返礼である感謝の意を最初から断っているということです。そんなもの、立派でもなんでもないただの失礼のきわみです。

と書いてて、私も自分が断ってる件を思い出しました(汗)。理路整然と批判を書いて、それが自分にこそ当てはまるときほどみじめなものはないですね。正に裁くなかれです。ちなみに、このエントリの内容を理論的にではなく、エッセンスのみ受け取りたいという方はぜひマタイ書6章と7章(の冒頭)をお読みになるようお勧めします(今、思い出して読んだら、ピッタリだと思いました)。ただし、別に私はクリスチャンではありません。


追記

はてブに重要なご指摘があったので、ちょっとリプライしておきます。

医者の労働条件の問題はいろいろなフェーズがあって本来、単純に語れる問題ではありませんが、この文脈でもちょっと違う話です。奴隷的な労働条件下でも働く医師は、別に報酬を拒否しているわけではなく、報酬を要求していないだけなのです(要求する時間さえもないなどの現実的問題はおいときます)。実際、同じことじゃないか、ともいえますし、実態としてはそういう側面もあるのですが、原理的には別々の問題と考えています。
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