濱口先生からまた、リプライをいただきましたが、私の書き方の拙さのせいでしょうか、やや誤解を生んでいる部分もあるような気がします。私は決してボランティア精神全般を批判しているわけではありません。おそらく、濱口先生がタイトルにされた「非金銭的な互酬の論理」という論点をわざと詳細に議論しなかったため、このような事態に陥ったのだと思われます。さすがに問題の核心は鋭く見抜かれてしまいましたね。この問題は必ずしも、客観的に議論できる内容ではなく、完全に価値判断全開で言わざるを得ない、そういう領域に入ってくるので、あえて遠ざけたというところです。まあ、でもここまでいったらはっきり書きましょうか。

たとえば、こんなたとえ話で考えて見ましょう。今、年金生活で決して裕福ではないご老人がいたとします。そのご老人にはいつも介護してくれるボランティアの青年がいます。そのご老人はいつも親身になって面倒を見てくれる青年に何か御礼をしたいと考え、少しずつ生活を切り詰め、なんとか1000円のお小遣いを青年に送ろうとしました。青年はその謝礼を断りました。その理由を以下の3通り用意します。

1 自分はボランティアであるので金銭を受け取ることは出来ない。
2 自分はそんなつもりでやっているわけではないので、そんな大切なお金をいただけない。
3 お気持ちだけを十分喜んでいただく。

私が批判しているボランティアは1だけです。なぜなら、この間にまったく互酬は成立しておらず、むしろ、その関係性を拒否しているということが出来る。一方的に相手に与えているだけであって、相手からの受け取りを拒否しているからです。私はこれを自己満足だけの傲岸な態度だと思います。2は微妙なので後に回して3をみましょう。3では明確に報酬を苦しい生活の中から1000円を用意したその気持ちとして受け取って、物質的な報酬を辞退しています。ですから、この場合、非金銭的な互酬(気持ちの交歓)は成立しているのです。

難しいのは2のケースです。互酬という観点から見た場合、ここに問題の難しさが凝縮されているといってもいい。それくらいの勢いで考えてます。2のケースは自分が相手に与えた行為の価値よりも、相手からお返しされた感謝の量が大きすぎると判断したため、それを受け取ることが出来ないと考えています。実は、ここでは互酬の一歩手前、お互いの交歓関係になっている点までは辛うじて成立しています(かどうか微妙かな)。相手の返礼を物質的なものだけでなく、結果的に気持ちの部分でも受け取っていない、というより、上手に受け取れていないと言えば良いでしょうか。でも、こういう自己認識は自分の行為を無私で与えている結果でもあります。もちろん、そうした自分の行為が相手にどういう風に受け取られ、それがどう返って来るのか、そこまで想像できればベターです。しかし、それがうまく出来ずに、仮に互酬が不成立であっても、それは批判されるべくもありません。

ちなみに、行論上、今受け取らない設定にしてありますが、この場合、受け取るもよいと思います。受け取って自分のために使うのもいいでしょうし(送り主がそう願っているのだから)、その送り主のために何かプレゼントを買うのでもいいんじゃないでしょうか。今以上にも介護に力を入れて頑張るというのも一つの道ですね。他にもいろいろな方法があると思います。仮にこれをまとめて、4としておきましょうか。

前回、私が書いたエントリは1をさらに強化したもの、原理的にいえば、1の立場から4を選択する人を非難する者に対して向けられた批判です。ただ、ポイントを分かりやすくするためにわざと以下のような、過激な表現をしました(カッコ内は抜けていたので補いました)。

> 基本的な原理原則で言えば、働いた分の報酬はどんな人であれ、
> 与え(られ)るべきなのです。
> どうしても無償で奉仕したいという人はその後、
> 全額寄附すればよいのです。

実際には金銭の交換は行われなくても構いません。ただ目に見えた形じゃないと分かりにくくなるので、こういう風に書いてみたのです。

ちょっと話が違いますが、こんな例もあります。書いていて難しいなと思ったので、この段落はスルーしてくださって構いません。明治初期の紡績職工の雇用関係は、信用の交換が金銭的な形で存在していた、と論じたことがあります。具体的には前貸金と保信金です。でも、お互いの間の信用が成立すると、保信金のようなものはなくなっていきます(このなくなっていきます、という表現も微妙なのですが)。それはある意味では不信の相殺としての信用構築、という側面があるわけですが、それは形として見えないと把握しづらいのです。実は、雇用関係に埋め込まれたこうした関係を慧眼にも見抜いたのはコモンズでしょう。

それはさておき、濱口先生の次の記述は誤解を招きかねません。

> 狭っ苦しい金銭に縛られたがちがちの交換の論理を否定して、
> 伸びやかで自由で形式にとらわれずいつでもどこでも誰とでもできる「互酬」の論理の実践

私がもっとも注意を喚起したかったのは、金銭の交換が絡んだとしても「互酬」は成立し得るということであって、金銭の交換と互酬を対立的に捉えるのは間違っているということです。そこは対立の軸ではないのです。実務上は切り離せても、実際は金銭の交換の上に気持ちが乗せられて飛び交う(=非金銭的な互酬が成立する)ケースがある以上、なかなかそう簡単には切り離せないのです。

というわけで、私が批判しているのは、一見して単に金銭的交換を否定しているだけに見えるけれども、その実、金銭的な交換を全否定することによって、非金銭的な互酬さえも破壊しかねない人々なのです。濱口先生が訂正してくださったテーゼ「「やりがい搾取」の構造は「交換」の否定である報酬拒否から生まれる」というのは、実態はそれでほぼカバーできてしまうのですが、より細かく見ていったときに、互酬さえも破壊しかねないという点が見えにくくなるのではないかと思います。私の場合、ここにポイントがあるのです。

多分、こういう互酬への考察を掘り下げていくと、ギフト・エコノミーとか、「市場」をどう捉えるかとか、そういう話に展開していきます。今、普通の経済学では「市場」と「組織」を対立的に捉えて議論しているわけですが、「市場」を組織として捉える視点も存在しますので、そういう面倒な問題とも絡んできます。また、実際に贈与という慣習が色濃く残っている世界では、法的な報酬請求権のようなものはなくとも、社会的関係の中で強制メカニズムが機能することがあります。そして、そのことを論じるためには、阿部謹也先生やポランニー、それから貨幣論的なものを読み返さなきゃいけないのですが・・・まあまあ、というところでしょうか(笑)。

4のケースでも、気持ち面での互酬が成り立っていないことがあるんじゃないかというつっこみはあり得ますが、予め言っておくと、まったくその通りです。が、そこらへんはそれぞれで考えてみてください。何れにせよ、このような論点を強調する必要があるのかどうかは、論じるべき問題によるので、とてもセンシティブです。
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