「人間力対職業的レリバンス」という対立構造で物事を捉えるのに、反対する理由は数多くあるのですが、その一つは職業訓練をまた、不当に低めるものであると考えるからです。この場合、職業訓練のなかに、各種の専門学校を加えてもいいかもしれません。

実際のところ、私は自分が偶々関係した専門学校を見ただけですが、少なくともそれまでにこんなに人間教育をしっかりしている学校を見たことがありませんでした。彼らが就職していくのは、彼らの能力ももちろん、大前提にありますが、大きいのは先生方のバックアップです。生徒と頻繁に連絡を取り、面接を繰り返し、よく一人ひとりのことを把握し、いわゆる躾というべき教育も徹底しています。彼らが取得している資格がどれくらい就職に直接、役立っているか分かりませんが、少なくとも私はその資格の力だけが専門学校を支えているとは思いません。偶々、一緒に非常勤をやっている先生から聞いた話だと、他の専門学校も結構、そういう面倒見はいいんだということでした。なぜこういうことを書くかというと、学校という形態を取らない時代から、実は職業訓練の一つの流れとして人格教育があったし、今も現にあるんだということをぜひ知って欲しいと思ったからです。そのためには佐々木輝雄に返らなければならない、と私はそう思います。

実は去年の夏ごろ、私は佐々木輝雄先生の本を紹介しました。時間が出来たら読もうと思って積読していたのですが、今回、いろいろな問題を考えるに当って、全集3冊を読みました。私の影響かどうか知りませんが、古書価は高くなりましたね(笑)。

それにしてもこんな天才的な学者の研究を知らなかったとはまったく自分の不明を恥じ入るばかりでした。ただ、すごいなあと思う一方で、これは理解されないだろうなと思わざるを得ませんでした。私は専門ですから、第三巻で描かれている行政官庁の流れをほぼ理解しています。細かい名前はあやしいですが、大まかな流れは分かります。細かい名前は論文を書くときだけ確認すればいい(笑)。しかし、こうした流れを知っていることを普通の人に期待するのは難しいし、おそらく学者であっても分野が違ったら厳しい。そういう歴史を知るような本もないのです。佐々木先生の業績を一言でまとめるのは難しいし、詳細な検討はもう少し考えを深めてからにしたいところですが、二つの重要な視点を紹介しましょう。

佐々木先生によれば、職業訓練には三種類の考え方があるそうです。解説の木村力雄先生の文章を引用しましょう。
職業訓練には、1「商工・産業経済のために役立つ最先端の技術・技能を教えること」だとする商工派、2「最先端のことを教えるよりは、飯を食わせることが大切で、失業したら手に職を付けてやることだ」とする民生労働派、3職業訓練とは、まさに教育そのものなんだ、とする教育派、の三つの派があり、現在労働省の管轄下にある職業訓練は、1商工・通産行政、2社会・厚生行政、3文部行政の狭間にあって、そのいずれにも徹しきれないところにおかれている。そしてそれ故に「非常に難しい立場」におかれているのだ。

この視点は汎用性があります。たとえば、資格試験にとても関心が集まるようになってから久しいですが、この資格をどうみるのか。一つは、一流大学であってもダブルスクールで取得を目指す公認会計士や昔の司法試験のようなもの。これは言ってみれば、その分野の最高峰ですから、1に準ずると見えなくもない。また、様々なところで注目を集めている資格はそんなに難易度の高いものではなく、まさに手に職の2を目指しているものもあります。これだけでもレベルをわけて考えることが出来るようになります。

ですが、私がもっとも重視したいのは職業訓練=教育論です。ただし、注意したいのは佐々木先生の議論を見ていくと、日本のルーツは小河滋次郎になるということです。ああ、貧民研究会ね。と反応したら、マニアです(笑)。20世紀初頭の地方改良運動は内務省の一大イベントで、その中心は井上友一でした。井上は窪田静太郎や松井茂が作った貧民研究会の主要メンバーです。文部省はそれに乗っかる形だった。そういう意味じゃ、細かいことを言い出すと、2と3は密接に結びついている。窪田、井上、小河らは社会局を作った救済事業調査会の主力です。この意味でも分類は難しい。強いて戦前の分類でいうと、1は農商務・商工、2・3は内務省、ともいえるでしょうか。でも、仮にここは3教育論=小河の議論にしときましょう。

佐々木先生は小河滋次郎の精神をよく継ぎ、おそらくは佐々木先生の精神をよく継いでいるのが田中萬年先生です。おそらくというのは、私は田中先生の本をほとんど読んでおらず、わずかにWEB上で先生があげているものを読んだだけなので、自信をもっていえないのです。

佐々木先生の全集第三巻に「職業訓練の高等教育化・成人教育化」という一編があります。この論文は印象的な一言から始まります。
職業訓練の現実は、重く且つ暗い。この現実を克服するために、職業訓練は過去においても、また現在においても、さまざまな努力を重ねてきた。例えば、職業訓練は過去において、その存在証明を得るために、学校教育との比較において、その教育対象、教育内容、教育方法の独自性を強調してきた。また現在では、昭和五〇年四月からの職業訓練短期大学校、技能開発センター、職業訓練大学校再訓練部の発足に象徴されるとおり、その高等教育化への主体的な努力を高く評価しながらも、しかしこれらの努力によってのみ、職業訓練の重く且つ暗い問題が解決し得るとは考えないのである。と言うのは、職業訓練が当面している課題は、日本の教育のはらむ矛盾の解決なしには、解決不可能と考えているからである。

そして、結論部分では次のように述べています。
(職業訓練の)独自性の主張は、常に学校教育との違いを強調するだけで、それを超えた課題に対する認識を欠除していたのである。その認識とは、対象とする人間が学校教育であれ、職業訓練であれ、ともにより高い教育を受けたいと願っている点において、共通しているということである。かかる認識に立てば、単に学校教育との違いを強調するだけでは、職業訓練は永遠にその存在証明を入手できなくなる。むしろ、職業訓練の独自性は、学校教育との異質性に対しては等価の評価を、また同質性に対しては同一性の評価を要求し、それを実現することによってのみ、はじめてその存在の重みを持ち得るのである。このために職業訓練が「教育の機会均等」理念と無縁な存在であるかのような幻想を、まず最初に克服しなければならない。

田中先生がなぜ、教育の語義から考察し、さらに教育基本法の意味、義務教育の考察をされているか、この引用から明らかではないかと思います。田中先生の非教育=職業能力開発論は佐々木先生が提出したこの問題に対する答案であると考えてよいのではないでしょうか。少なくとも田中先生は全集の編集者の一人であり、佐々木先生の資料面での協力者でもあり、そして、何よりたしかな考証力(歴史家の職業能力!)を引き継いだ研究者でもあります。

その田中先生の議論は、言葉の表面上は「教育」という言葉からの解放を求めているのですが、歴史的文脈から離れて我々の日常的な言葉遣いから考えれば、むしろ、教育(三種類のうちの3)を突き抜けて考えていった結果のように私には思えます。そして、そこから1,2が捉え返されている。それはまさに学校教育との差異を言うだけに留まらない、職業訓練の存在証明なのです。

私の見立てによれば、もし田中先生の研究がある種の小河以来の修養教育を継承したものであっても、それはフーコー的な議論と親和的な人間力派とは似て非なるものなのです。小河の議論は私が佐々木先生の議論を読んだ範囲で推定すると、監獄改良運動とその精神を一にしています。したがって、フーコーと対立的になるのは当然です。この点の思想研究を進めているのが小野修三先生のご研究です。10年前のものですが、ネットで読めるのを紹介しておきます。

日本の職業訓練論は普通教育との緊張関係のうちに、職業訓練関係者の血の上についにこの高みにまで登りつめたのであって、たかが人的資本論程度の議論で掬えるようなものではないし、したがって「人間力対職業的レリバンス」などという舞台では不十分なのです。役者が違うのです。今度はこういう議論を踏まえて、大学の存在証明をしていく必要があるように思います(もちろん、私がそんな大それたことをやろうとしているわけではありません。念のため)。
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