松田宏一郎『擬制の論理』を読み始めたら、面白い。少しずつ考えておいたことをメモしておきたい。というか、本当はこのブログはそういう趣旨で始めたものだし。

まず、「序」から始めたいわけだが、この短い間のなかで深く検討すべき論点が既にたくさん含まれている。松田先生の立場は、きわめてプラクティカルである。真理に到達する方法など確立されていないのだから、セカンド・ベストであっても現実的な「擬制」を利用するということが重要である、というものであろう。

冒頭、イェーリング、ブラックストン、ベンサムの言葉が比較されているが、ブラックストンはコモンローを重視した人で、ベンサムは制定法を重視した人と言えるだろう。大まかに言って、最初の二人は自然な法(ロー)の発見を重視、ベンサムは人為的に制度を設計するのを重視、と分類していい。法の発見というときの法は絶対神、ないし絶対的な法則と言い換えてもいい。その方法はないので、セカンド・ベストとして擬制を重視するという話である。これは西洋で発達した統治技術で、日本でも明治以降にこういう問題を取り扱わなければならなかったということである。

どうも松田先生の論の運び方を見ていると、擬制には政治的とつけてやや厳密に理解した方がよいのだが、政治的から離れても通用するような一般的な理解でよい場合をちゃんと意識しているな、というところがあって、そこのバランス感覚は絶妙である。たとえば、荀子と徂徠の「道」概念が出てくるのだが、この例示がもし老子だとうまくいかない。老子は言葉で言い尽くせない「世界、ないし宇宙、ないし存在の法」のようなものがあって、名前のつけようがないけれども、とりあえず「道」と呼んでおこうといって議論が始まる。荀子、徂徠の議論も当然、これを踏まえているのだが、礼楽刑政まで来ると、ぐっと政治的擬制という意味合いが強くなる。松田先生の言う徂徠の意図は制度は正しい道に則って運用されなければならないということだろう。だが、「道」の考え方は、キリスト教でいうところの否定神学における「神」の扱い方に近いので、具体的にどうやるかは別にして、自然法のような形で展開して、法思想になってもおかしくないのではないか。というところに、深入りしないのが松田流である。これ、突っ込んでいくと、普遍論争のような話になる。というところから話を展開してもいいが、名前が何を表すのかというのは、この本の次の展開として、作られた擬制がどのように機能するのか、ということは当然、次に考えられるべき課題になってくるだろう。

ロミオとジュリエットに出てくる有名なジュリエットの「バラの名」の台詞がある。モンタギューの名がなんだというの、バラをバラと呼ばなくても甘い香りがするじゃない、名前なんて意味がないわ。という内容である。その一方で、名前そのものがその人の記憶や存在そのものを表す場合もある。2016年に大流行した「君の名は。」にもそのモチーフがあるし、歴代興行収入トップの「千と千尋の神隠し」にも実は同じモチーフがあった。名前を奪われると、その存在までも失われるのでは、ある機能に名前をつけましたというような、ただ(唯)の名前だというわけにはいかない。というか、日本の神話的世界ではわりと王道である。では、こういうところをどう考えていくのか、というのは問題としては面白いが、面白いのでまた取っておこう。

とはいえ、方法が確立されていないので、それを有用性において割り切って利用しようという発想は、きわめて日本的な解かもしれない。この点では松田先生の立場は尾高朝雄の「法哲学における形而上学と経験主義」にも似ている。尾高は経験というのは未熟なもので、だからこそそれが修正される点を重視する。そして、その考察を進めて現象学にたどり着いていって、それはそれでよいのだが、実は方法がない、と言っていたところがそうじゃないという立場がある。簡単に言えば、秘教、行の伝統である。近代ではもっとも有名なものの一つは、スピリチュアル界隈では「いか超」という略称で呼ばれるシュタイナーの行論であろう。まあ、人間が一人残らず、覚者になれば、擬制などはいらないかもしれないが、思考実験としてもあまりに現実から遊離しすぎている。結局のところ、「擬制」の作りものの性格(これはだから偽りであるとは限らない)を前提にするというのは、プラグマティックではないかもしれないが、プラクティカルには有用であり、私もすごく共感する。
企業史料アーキビストの松崎裕子さんからエリザベス・シェパード,ジェフリー・ヨー『レコード・マネジメント・ハンドブック』日外アソシエーツをいただきました。ありがとうございます。本と一緒に送り状をいただくことはよくありますが、お手紙を別にいただくのはまれです。几帳面に書かれた宛名を見ながら、いかにも松崎さんの丁寧なお人柄が感じられるなあと思いました。

松崎さんのお手紙には、ハンドブックなので全部を読み通さないと理解できないという性格ではないが、訳者序文から第1章までは本書のエッセンスが述べられた部分なので、一読をお勧めしますという趣旨のことが書いてありました。訳者序文にはこの14年も前に出版され、電子的な環境その他が変わったにもかかわらず、この本を翻訳する意義として、原則を共有することが出来るという考えが述べられていました。これは非常に重要なことと思います。

実はこの本が出版されるのは、Facebookを通じて知っていましたが、あんまり手に取るつもりはありませんでした。それは私自身が出来ることが限られていると思っていたというのが第一、現にできることは粛々とやるしかないし、理想的な方法を知っても現実との落差が悲しいだけだと思っていたからです。ただ、実際に手に取ってみて、その考えを改めました。

この本はアーカイブズ関係者以外にも非常に有益であることを強調しておきたいと思います。まず、狭い範囲で言えば、社会科学系の研究者は得るところが大きいと思います。つまり、自分が使うデータとはどういう性格を持っているのか、ということを外形的な部分からの分析が述べられているからです。だから、データセッション的な研究会に関心がある向きにはお勧めだと言えましょう。

そして、何よりこの本は記録管理、アーカイブズ(文書)管理の本です。何らかの記録を体系だって整理するということは、組織である以上、どこでも生じうる必要であり、ということは、組織にかかわる人であれば、この本は実務的に得るところがあります。特に、「第2章レコード・マネジメントのコンテクストを分析する」が重要です。なぜか、文書を整理するためには、その文書がなぜ作成されたのかを理解しないといけません。そうであれば、その文書を作る組織に注目せざるを得ないのです。ですから、第2章は事実上の組織論です。というわけで、経営学、それから、社会学の古いシステム分析なんかに興味がある人にもお勧めできます。

言ってみれば、記録管理は組織の情報処理(あるいは管理)で、まさに組織の命脈です。もちろん、これがあれば、それだけで戦略を立てられるというようなものではありませんが、逆に言えば、使いこなせれば、すごい武器になりうるということです。私としては、企業もそうですが、政党、組合には特にこの本を読んで、組織戦略を考えるきっかけにしてほしいと思います。もちろん、全部を丁寧に読む必要はなくて、さらっと読み流せばいいんですが、実務をやっている人は現場の勘があるでしょうから、それでも響くところは響くはずですし、それで十分です。ただ、そういう刺激を与える本だと思います。

というわけで、おそらくはそんなに売れないだろうと思いますが、広くこの本をお勧めしたいと思います。

最後に、ファイリングは専門職です!と言っておきましょう。

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友人の畠中さんから『地方都市から子どもの貧困をなくす』をいただきました。ありがとうございます。この本は、大原社研の大原社会政策研究会で志賀さんが報告した後の飲み会で意気投合した二人が中心になって、九州宮崎の貧困の実践活動を調査し、その問題点を広く社会に訴えようとした、そういう本です。というか、私、飲み会で畠中さんの隣に座っていて、その前が志賀さんだったんだけど、そんな話してたんだ。歴史的証人(?)になり損ねた感がありますな。仲間の書いたものなので、なんとかバックアップしたいという気持ちは大いにあるんですが、正直、手放しで勧められるかというと、難しいなというのが初読の感想です。

この本でアトラクティブなのはタイトルと事例、それから「プロローグ」「エピローグ」です。それぞれの「想い」が伝わってきます。一般書ですから、アカデミックな価値観だけで、評価する必要はないと思いますので、むしろ、この「想い」の部分がよいということをまず、紹介しておきたいと思います。実践的な活動をするのは、迷いながら進めていくしかないとするならば、この本はあれこれを考える格好の材料であることは間違いないです。それから、パッションがもたらす、熱というか、そういうものが間違いなくこの本にはあります。その意味で、こういう問題を考えている同志がいるという勇気がほしいひとはそれだけで手に取る価値があります。

圧巻はやはり、宮崎で「のびのびフリースペース」をやっている喜多裕二さんの事例編でしょう。とにかく、子どもたちの具体的な事例が紹介されていて、圧巻です。最後に経済的な貧困があろうとなかろうと、心の貧困を抱えているという認識が示され、結論ではとにかく「聴くだけ」の重要性が語られています。喜多さんの二つの章が説得力を持っているのは、もう経験から出た言葉だから、という一点に尽きると思います。ただし、この「心の貧困」が本書全体を貫くキーワードになっているんですが、それがよかったかどうかというと、私ははっきり言って反対ですね。それはこの本が誰をどういう形で説得しようとしているのかということにもかかわるでしょう。

この本では、アカデミシャンたちは貧困をより構造的に掘り下げて理解しようと模索していますが、その結論はより多くの市民(ないし住民)が「子どもの貧困」関心を持って、活動に参加すること、になっています。しかし、そうだとすると、宮崎やその他の地域でもよいですが、何かを始めようとする人たちにそうした多様な情報がどれだけ必要なのか、とりわけ入口時点でどれだけ必要なのかという点では疑問です。そういうことは、活動をしていくなかで、徐々に掘り下げていけばよいのであって、最初からそういう100年かけて解決するような問題に取り組むんだというような意気込みは、かえって多くの人をしり込みさせてしまうのではないかという感じがします。でも、そういう情熱はアカデミシャンとしてというより、彼らの若さなのでしょう。

それから、もう一つ。これが「心の貧困」という概念を中心に掲げることの最大の理由ですが(ほかにもありますが、今回は一つだけ)、「心」の「支援」はしばしば、問題のある人を引き込みます。というか、自分の「心」にも問題があるのに、それをちゃんと見つめずに他人を救おうという行動に出て、その実は自分が救われたい、というタイプの人です。これは今書いたいろいろな部分をちゃんと認識している場合と、無意識の場合があります。そういう人がいると、かえって事態がややこしくなります。もちろん、交流の中で成長していくことはあるので、完全に排除する必要はないですし、実際に来て一緒にやるという段階になったら、受け入れて一緒にやるしかないんですよ。しかし、だからこそ、「心」を前面に打ち出すのはどうかな、と。

このように考えていくと、喜多さんがおっしゃるただ聴けばいいというのもハードルが相当に高い。相手を逸らさずにまっすぐ話を聞くというのは、単なるテクニカルな話法的なものだけではなく、それを受け止める、あるいは必要以上に受け止めない、そういう微妙な覚悟が要求されます。正直、かなりむつかしい。何がむつかしいかというと、どうしても自分の判断を挟んでしまうんですよ。さらに、自分なりの結論を先に出して、解決策を提示したくなる。その衝動に耐えられない場合は、相手の話を途中で遮ることになります。もちろん、テクニカルに話を遮る必要があるときもあるでしょうけれども、多くの場合、それは相手に自分が拒絶されたと感じさせるでしょう。この問題のむつかしいところは、これを自然にできている人もいて、そして、しばしばその人たちは自然にできてるからこそそれが簡単だと思ってしまっているということにあります。ことの性質上、仕方ないんですが。しかも、解決策を提示しなくてはと気負うと、この子どもの貧困のような複雑なケースでは実際には無理なので、自分の無力感を育てることになってしまいます。

そうすると、裾野から広げていくには、昨今の子ども食堂でもいいんですが、場を作って、そこで何気ない他愛ないおしゃべりをするということが重要ではないか、と思います。それは支援者側に焦点を当ててたプランです。つまり、入りやすくするために、ということです。実際には、そういう場さえもしんどいというか鬱陶しい、むしろ、キラキラしている感じが嫌な子たちもいるでしょう。だけど、そういうところで救われる人もいると思います。ただ、そのときに気を付けなくてはいけないのは、解決策は提示できなくても気にする必要はないんだ、ということだけは共有しておくことでしょう。

私、本当は自分がかかわっていない運動、あるいはコミットする可能性がない運動に、提言するのは好きじゃないんですが、ちょっと彼らの情熱に当てられましたね。ただ、アカデミシャンとして参謀的に参加するならば、全体を鳥瞰する戦略と、それを実現するための一つずつの手段は両輪で、考えた方がよいんじゃないかと思います。そうでないならば、そういうもの(分析)は全部投げ捨て、一兵卒としてできることだけをやるしかないと思います。アカデミックな観点から考えて納得できない部分については、将来、研究書が刊行された時点で、しかるべき形でやることにします。
著者の西川さんから『マネジメントに活かす歩合給制の実務』をいただきました。ありがとうございます。

戦時期に家族賃金という形で、固定月給制の導入のブームが作ろうとされたときに、実務家、三機工業の大矢三郎という人が『請取賃金制度』ダイヤモンド社という本を書いて、旧来の請負給だってやり方次第ではいいんだという主張をされたことがあります。大矢は、それこそ上野陽一なんかの日本能率協会系のコンサルタントとも近く、当時の最先端の賃金の議論をよく周知されていました。その当時は今と違ってビジネス書という範疇はないので、大矢賃金論は実務と学術書の中間のような本に仕上がっていました。西川本を読みながら、大矢賃金論を思い出していました。

この本はかなりよいです。人事関係者、労働組合関係者は必携ですね。ポイントは二つ。一つは何よりも実務的な面で分かりやすく論点が提示されています。組合関係者もこれを読んで歩合給への対抗を考える必要があります。加えて、請負や歩合の問題を考える上で示唆深い本であることがあげられるでしょう。

私の本も大分利用していただきました。ありがとうございます。『日本の賃金を歴史から考える』の一つのテーマは、労働を雇用労働からだけ考えるのではなく、請負との対比から考えていくというものがありましたので、まさに私の問題意識を実務的に発展させていただいたと思っています。あの本を書いて、それぞれの現場の問題意識からのコメントをいくつも頂戴して、それだけでもかなり嬉しかったのですが、まさか実務本でまでこのように取り上げていただけるとは思っていませんでした。あの本は具体的な事実もそれなりには書いてありますが、基本は理論的な本です。たぶん、そういう思考方法はアカデミックな研究者の方が慣れていますが、逆に、実務的な詳細はやはり現場の人にはかないません。ですから、こういう形で、お互いの問題意識を深め合うというのは、すごく理想的だなと感じ入りました。

この本を読んでいると、それこそ実務的なかゆいところに手が届く内容になっているのではないかと思います(ただ、私にはその判定能力はないので、あくまで思います、としておきます)。判例も、それほど複雑ではなく、論点にあわせて適切に切り出していると思います。さらっと書きましたが、これは意外と難しい作業で、法律文書に慣れていて、なおかつ実務で人に話すことに慣れていなければ出来ないでしょう。原理的な部分と実務的な部分が併存しているのはいいですね。

私がお勧めしたいのは、歩合給を導入しようという企業や組合の関係者だけではなく、それに反対する立場の方にこそです。じつは私自身も西川さんの言う方向には必ずしも賛成していないのです。ただ、だからこそ、反対の考え方を学ぶ上でも、ぜひ読んで欲しいと思います。

私が問題提起しておきたいのは、能力育成の問題がほとんど触れられていないということで、それと関連する論点ですが、長期的な視点が入ってこないことです。もちろん、大きい流れとして、タイム・スパンが短くなっているというのはその通りですが、人材育成では長期的な視点を入れないわけにはいきません。細かい仕事内容は変動する場合もあるので、変化することもありますが、大まかな人材育成方針は必要です。

歩合というのは、仕事を適切に切り出せる、ということが前提になります。次は、その切り出した仕事間の関係をどう理解するのかということが問題になります。よく言われるように、簡単な仕事を外注すると、若い人を育成するために最初にやらせる仕事がなくなってしまう、というようなことが起こります。ですから、部分最適と全体最適(長期も含めて)のバランスを常に考える必要があります。しかも、この場合の全体最適の方は、正確に測れるようなものではないので、おおよそこの領域は考えておかなきゃならんなというところを押さえた上で、あとは勘でやるしかありません。

ここと関係するのは、西川さんはおそらく、研究に対して敬意を払って勉強なさっているので、衛生分野にもそういう形で接されていると思うのですが、そこの議論の基本は、現在の点の関係なので、長期になると変わってくると思うのです。とくに、気持ちの部分は、アカデミックに切り出すよりも、経験則で語った方が伝わる部分もあるので、もうちょっと大胆にご自分の経験を語られてもよかったのではないかと感じました。

人事関係、組合関係のみなさん、ぜひ一冊、おいておきましょう。
『アステイオン』2016年84号をサントリー文化財団からいただきました。ご無沙汰してしてしまっているのに、長く気にかけてくださり、ありがとうございます。

今回の特集は『帝国の崩壊と呪縛』ということで、国家論や国民国家ということに関心のある私としてはとても興味深い内容です。去年、佐藤成基さんの『国家の社会学』の書評を書きましたが、『アステイオン』は歴史ももちろん視野に入れているものの、現在の国際問題のホットトピックを扱うので、勉強になりました。ただ、今後の目玉は30年記念の特別企画でしょう。山﨑正和・苅部直対談に始まり、何人かで分担して書いているアステイオンの歴史はなかなか興味深いです。亡くなられた初代編集長の粕谷一希さん、よい意味でも旧世代の感じの方で、日本の古い教養人の雰囲気を持っていたし、そして、そういう文化をまた創りたかったんだろうなと思います。そういう意味では、晩年、河合栄治郎の本も出されています。そういう思想的な背景なんかを改めて思い出しました。

当時と違って、代々木系は弱くなったと思います。というか、それはかつての代々木系の出版社の出版物を見ても、もう昔のように代々木系とだけでは理解しきれない、多様な本を出さざるを得なくなっている。それを資本主義的な市場原理で説明するのか、より組織内在的な社会主義(を目指す)組織の世代間継承の問題と見るのか、どちらも可能でしょう。逆に言えば、こういう証言を読まないと、よく分かんなくなりますよね。そして、そういう状況は、「帝国の崩壊と呪縛」のうちの、冷戦体制の崩壊とももちろん重なっているんでしょう。

ただ、そうした中で、私が個人的にもっとも、ああそうか、と感心したのは宮武美知子「沖縄の護国神社」ですね。素人の我々からすると、現在の国家神道の問題は、すぐに靖国神社の問題と誤解しがちですが、慰霊ということでは、靖国神社以上に全国津々浦々にある護国神社もあるんですよね(もちろん、それ以外にも地域によって、その地域の神社やお寺に慰霊塔が建てられていることも珍しくありませんし、それだけが独立して建てられていることもあります)。簡単に言えば、時間の経過とともに世代交代が起こり、護国神社は地域化をしているという話で、最後には靖国もここ最近では国家護持ではなく、慰霊に専念する方向に変わっている(先代からの方針)とのこと。今の宮司が徳川康久氏というのも初めて知りました(無知ですみません)。徳川家って実は結構、近代日本でも重要な役割を果たしてますよね。島薗先生の国家神道論もいいけれども、そういうもので勉強している人にはぜひ、こういうのも手を取って欲しいです。それこそ『国家の社会学』とあわせて読書会でもやりたいと思いました。