友人の畠中さんから『地方都市から子どもの貧困をなくす』をいただきました。ありがとうございます。この本は、大原社研の大原社会政策研究会で志賀さんが報告した後の飲み会で意気投合した二人が中心になって、九州宮崎の貧困の実践活動を調査し、その問題点を広く社会に訴えようとした、そういう本です。というか、私、飲み会で畠中さんの隣に座っていて、その前が志賀さんだったんだけど、そんな話してたんだ。歴史的証人(?)になり損ねた感がありますな。仲間の書いたものなので、なんとかバックアップしたいという気持ちは大いにあるんですが、正直、手放しで勧められるかというと、難しいなというのが初読の感想です。

この本でアトラクティブなのはタイトルと事例、それから「プロローグ」「エピローグ」です。それぞれの「想い」が伝わってきます。一般書ですから、アカデミックな価値観だけで、評価する必要はないと思いますので、むしろ、この「想い」の部分がよいということをまず、紹介しておきたいと思います。実践的な活動をするのは、迷いながら進めていくしかないとするならば、この本はあれこれを考える格好の材料であることは間違いないです。それから、パッションがもたらす、熱というか、そういうものが間違いなくこの本にはあります。その意味で、こういう問題を考えている同志がいるという勇気がほしいひとはそれだけで手に取る価値があります。

圧巻はやはり、宮崎で「のびのびフリースペース」をやっている喜多裕二さんの事例編でしょう。とにかく、子どもたちの具体的な事例が紹介されていて、圧巻です。最後に経済的な貧困があろうとなかろうと、心の貧困を抱えているという認識が示され、結論ではとにかく「聴くだけ」の重要性が語られています。喜多さんの二つの章が説得力を持っているのは、もう経験から出た言葉だから、という一点に尽きると思います。ただし、この「心の貧困」が本書全体を貫くキーワードになっているんですが、それがよかったかどうかというと、私ははっきり言って反対ですね。それはこの本が誰をどういう形で説得しようとしているのかということにもかかわるでしょう。

この本では、アカデミシャンたちは貧困をより構造的に掘り下げて理解しようと模索していますが、その結論はより多くの市民(ないし住民)が「子どもの貧困」関心を持って、活動に参加すること、になっています。しかし、そうだとすると、宮崎やその他の地域でもよいですが、何かを始めようとする人たちにそうした多様な情報がどれだけ必要なのか、とりわけ入口時点でどれだけ必要なのかという点では疑問です。そういうことは、活動をしていくなかで、徐々に掘り下げていけばよいのであって、最初からそういう100年かけて解決するような問題に取り組むんだというような意気込みは、かえって多くの人をしり込みさせてしまうのではないかという感じがします。でも、そういう情熱はアカデミシャンとしてというより、彼らの若さなのでしょう。

それから、もう一つ。これが「心の貧困」という概念を中心に掲げることの最大の理由ですが(ほかにもありますが、今回は一つだけ)、「心」の「支援」はしばしば、問題のある人を引き込みます。というか、自分の「心」にも問題があるのに、それをちゃんと見つめずに他人を救おうという行動に出て、その実は自分が救われたい、というタイプの人です。これは今書いたいろいろな部分をちゃんと認識している場合と、無意識の場合があります。そういう人がいると、かえって事態がややこしくなります。もちろん、交流の中で成長していくことはあるので、完全に排除する必要はないですし、実際に来て一緒にやるという段階になったら、受け入れて一緒にやるしかないんですよ。しかし、だからこそ、「心」を前面に打ち出すのはどうかな、と。

このように考えていくと、喜多さんがおっしゃるただ聴けばいいというのもハードルが相当に高い。相手を逸らさずにまっすぐ話を聞くというのは、単なるテクニカルな話法的なものだけではなく、それを受け止める、あるいは必要以上に受け止めない、そういう微妙な覚悟が要求されます。正直、かなりむつかしい。何がむつかしいかというと、どうしても自分の判断を挟んでしまうんですよ。さらに、自分なりの結論を先に出して、解決策を提示したくなる。その衝動に耐えられない場合は、相手の話を途中で遮ることになります。もちろん、テクニカルに話を遮る必要があるときもあるでしょうけれども、多くの場合、それは相手に自分が拒絶されたと感じさせるでしょう。この問題のむつかしいところは、これを自然にできている人もいて、そして、しばしばその人たちは自然にできてるからこそそれが簡単だと思ってしまっているということにあります。ことの性質上、仕方ないんですが。しかも、解決策を提示しなくてはと気負うと、この子どもの貧困のような複雑なケースでは実際には無理なので、自分の無力感を育てることになってしまいます。

そうすると、裾野から広げていくには、昨今の子ども食堂でもいいんですが、場を作って、そこで何気ない他愛ないおしゃべりをするということが重要ではないか、と思います。それは支援者側に焦点を当ててたプランです。つまり、入りやすくするために、ということです。実際には、そういう場さえもしんどいというか鬱陶しい、むしろ、キラキラしている感じが嫌な子たちもいるでしょう。だけど、そういうところで救われる人もいると思います。ただ、そのときに気を付けなくてはいけないのは、解決策は提示できなくても気にする必要はないんだ、ということだけは共有しておくことでしょう。

私、本当は自分がかかわっていない運動、あるいはコミットする可能性がない運動に、提言するのは好きじゃないんですが、ちょっと彼らの情熱に当てられましたね。ただ、アカデミシャンとして参謀的に参加するならば、全体を鳥瞰する戦略と、それを実現するための一つずつの手段は両輪で、考えた方がよいんじゃないかと思います。そうでないならば、そういうもの(分析)は全部投げ捨て、一兵卒としてできることだけをやるしかないと思います。アカデミックな観点から考えて納得できない部分については、将来、研究書が刊行された時点で、しかるべき形でやることにします。
著者の西川さんから『マネジメントに活かす歩合給制の実務』をいただきました。ありがとうございます。

戦時期に家族賃金という形で、固定月給制の導入のブームが作ろうとされたときに、実務家、三機工業の大矢三郎という人が『請取賃金制度』ダイヤモンド社という本を書いて、旧来の請負給だってやり方次第ではいいんだという主張をされたことがあります。大矢は、それこそ上野陽一なんかの日本能率協会系のコンサルタントとも近く、当時の最先端の賃金の議論をよく周知されていました。その当時は今と違ってビジネス書という範疇はないので、大矢賃金論は実務と学術書の中間のような本に仕上がっていました。西川本を読みながら、大矢賃金論を思い出していました。

この本はかなりよいです。人事関係者、労働組合関係者は必携ですね。ポイントは二つ。一つは何よりも実務的な面で分かりやすく論点が提示されています。組合関係者もこれを読んで歩合給への対抗を考える必要があります。加えて、請負や歩合の問題を考える上で示唆深い本であることがあげられるでしょう。

私の本も大分利用していただきました。ありがとうございます。『日本の賃金を歴史から考える』の一つのテーマは、労働を雇用労働からだけ考えるのではなく、請負との対比から考えていくというものがありましたので、まさに私の問題意識を実務的に発展させていただいたと思っています。あの本を書いて、それぞれの現場の問題意識からのコメントをいくつも頂戴して、それだけでもかなり嬉しかったのですが、まさか実務本でまでこのように取り上げていただけるとは思っていませんでした。あの本は具体的な事実もそれなりには書いてありますが、基本は理論的な本です。たぶん、そういう思考方法はアカデミックな研究者の方が慣れていますが、逆に、実務的な詳細はやはり現場の人にはかないません。ですから、こういう形で、お互いの問題意識を深め合うというのは、すごく理想的だなと感じ入りました。

この本を読んでいると、それこそ実務的なかゆいところに手が届く内容になっているのではないかと思います(ただ、私にはその判定能力はないので、あくまで思います、としておきます)。判例も、それほど複雑ではなく、論点にあわせて適切に切り出していると思います。さらっと書きましたが、これは意外と難しい作業で、法律文書に慣れていて、なおかつ実務で人に話すことに慣れていなければ出来ないでしょう。原理的な部分と実務的な部分が併存しているのはいいですね。

私がお勧めしたいのは、歩合給を導入しようという企業や組合の関係者だけではなく、それに反対する立場の方にこそです。じつは私自身も西川さんの言う方向には必ずしも賛成していないのです。ただ、だからこそ、反対の考え方を学ぶ上でも、ぜひ読んで欲しいと思います。

私が問題提起しておきたいのは、能力育成の問題がほとんど触れられていないということで、それと関連する論点ですが、長期的な視点が入ってこないことです。もちろん、大きい流れとして、タイム・スパンが短くなっているというのはその通りですが、人材育成では長期的な視点を入れないわけにはいきません。細かい仕事内容は変動する場合もあるので、変化することもありますが、大まかな人材育成方針は必要です。

歩合というのは、仕事を適切に切り出せる、ということが前提になります。次は、その切り出した仕事間の関係をどう理解するのかということが問題になります。よく言われるように、簡単な仕事を外注すると、若い人を育成するために最初にやらせる仕事がなくなってしまう、というようなことが起こります。ですから、部分最適と全体最適(長期も含めて)のバランスを常に考える必要があります。しかも、この場合の全体最適の方は、正確に測れるようなものではないので、おおよそこの領域は考えておかなきゃならんなというところを押さえた上で、あとは勘でやるしかありません。

ここと関係するのは、西川さんはおそらく、研究に対して敬意を払って勉強なさっているので、衛生分野にもそういう形で接されていると思うのですが、そこの議論の基本は、現在の点の関係なので、長期になると変わってくると思うのです。とくに、気持ちの部分は、アカデミックに切り出すよりも、経験則で語った方が伝わる部分もあるので、もうちょっと大胆にご自分の経験を語られてもよかったのではないかと感じました。

人事関係、組合関係のみなさん、ぜひ一冊、おいておきましょう。
『アステイオン』2016年84号をサントリー文化財団からいただきました。ご無沙汰してしてしまっているのに、長く気にかけてくださり、ありがとうございます。

今回の特集は『帝国の崩壊と呪縛』ということで、国家論や国民国家ということに関心のある私としてはとても興味深い内容です。去年、佐藤成基さんの『国家の社会学』の書評を書きましたが、『アステイオン』は歴史ももちろん視野に入れているものの、現在の国際問題のホットトピックを扱うので、勉強になりました。ただ、今後の目玉は30年記念の特別企画でしょう。山﨑正和・苅部直対談に始まり、何人かで分担して書いているアステイオンの歴史はなかなか興味深いです。亡くなられた初代編集長の粕谷一希さん、よい意味でも旧世代の感じの方で、日本の古い教養人の雰囲気を持っていたし、そして、そういう文化をまた創りたかったんだろうなと思います。そういう意味では、晩年、河合栄治郎の本も出されています。そういう思想的な背景なんかを改めて思い出しました。

当時と違って、代々木系は弱くなったと思います。というか、それはかつての代々木系の出版社の出版物を見ても、もう昔のように代々木系とだけでは理解しきれない、多様な本を出さざるを得なくなっている。それを資本主義的な市場原理で説明するのか、より組織内在的な社会主義(を目指す)組織の世代間継承の問題と見るのか、どちらも可能でしょう。逆に言えば、こういう証言を読まないと、よく分かんなくなりますよね。そして、そういう状況は、「帝国の崩壊と呪縛」のうちの、冷戦体制の崩壊とももちろん重なっているんでしょう。

ただ、そうした中で、私が個人的にもっとも、ああそうか、と感心したのは宮武美知子「沖縄の護国神社」ですね。素人の我々からすると、現在の国家神道の問題は、すぐに靖国神社の問題と誤解しがちですが、慰霊ということでは、靖国神社以上に全国津々浦々にある護国神社もあるんですよね(もちろん、それ以外にも地域によって、その地域の神社やお寺に慰霊塔が建てられていることも珍しくありませんし、それだけが独立して建てられていることもあります)。簡単に言えば、時間の経過とともに世代交代が起こり、護国神社は地域化をしているという話で、最後には靖国もここ最近では国家護持ではなく、慰霊に専念する方向に変わっている(先代からの方針)とのこと。今の宮司が徳川康久氏というのも初めて知りました(無知ですみません)。徳川家って実は結構、近代日本でも重要な役割を果たしてますよね。島薗先生の国家神道論もいいけれども、そういうもので勉強している人にはぜひ、こういうのも手を取って欲しいです。それこそ『国家の社会学』とあわせて読書会でもやりたいと思いました。
稲葉さんから新著『不平等との闘い』をいただきました。ありがとうございます。

稲葉さんや私の出身母体でもある社会政策・労働問題研究という領域には、長らくちゃんとした教科書がありませんでした。というか、今もありません。それは、社会政策がとにかくありとあらゆることを扱うから、なかなか一つのディシプリンで描くのが難しかったというのが実態です。ただ、1990年代まではマルクス経済学を基本的な教養としていました。マルクスを媒介とすると、思想を通じて、社会・政治にも手を伸ばせるので、非常に便利だったということがあります。

経済学の中ではマルクス経済学が完全に凋落して、かつては近代経済学と呼ばれていた新古典派経済学が主流になりました。主流になったのはよいのですが、なかなか社会政策領域ではこれはというものが出てこなかったんです。近年、駒村さんたちのグループが有斐閣アルマから『社会政策』を出して、ようやくここまで来たかという感じの一冊が登場しました。ですが、分量的な制約がある中、出来るだけ具体的な話を多領域において行い、さらに経済学の基本的な共用部分を教える、というのは。。。最初から欲張りすぎでした。私から見ると、よく出してくれたという本なのですが、でも売れないよなという感じで、やっぱりあんまり売れていないようです。

社会政策領域の基本的な教養としてマルクスがあったという話がありますが、もう一つ、社会政策のなかでも労働領域に限って言えば、労使関係研究を通じて、いわゆる制度学派と呼ばれる領域がありました。制度学派自体をどう捉えるかということ自体が大問題ですが、何冊かよい入門書があります(新古典派をバックに持つ新制度学派とは一応別、というか、それも取り込んでいるもっと広いイメージです)。しかし、今度はそれと労使関係が繋がっているかというと、あまり繋がっていない。せいぜい、昔のダンロップくらいです。まあ、そもそも労使関係がやられてないですからね。さらに、社会政策全体に制度学派的な見解はほとんど継承されていないと思います。もちろん、個人や狭いサークルで勉強している人たちはいるとは思います。

稲葉さんの『不平等との闘い』は、経済学における制度学派的な意味での社会政策の新しい入門教科書です。少なくとも、今、社会政策で勧めるべき入門書をと問われれば、私は駒村さんたちの本と、この『不平等との闘い』をあげるでしょう。あとは、社会福祉系のよい教科書をあげられればよいのですが、ちょっと、にわかに、これだとは決めかねます。この前、岩田正美先生の『社会福祉学のトポス』という素晴らしい革命的な本が出ましたが、まあ、正直、我々もこれからちゃんと摂取していかなければならない、という感じでしょうね。私は幸いなことに、三回ほど、別の研究会で岩田先生と話する機会があったので、ああそうだよなという勘はつかめましたが、なかなか人に話せるような形には出来ません。この部分と接続できると、本当はいいんですよね。

話が先走り過ぎました。というか、本体についてまだ何も語ってない。この本は非常にクラシカルな経済学の入門書といってもよいでしょう。というか、経済学の理論的な本です。だから、経済学の重要な学説を選択して、その当時の学者が直面していた問題(理論の前提になっている状況認識)を整理しているので、結果的には、歴史的な話も出てきていますが、基本は理論の話です(歴史推しなのはその方が売れるからでしょう)。今まではたとえば『社会学入門』は面白い本ですが、変化球でした。しかし、今回の本は経済学思想の王道と言ってよいと思います。それから、私はちくま新書の『「資本」論」はあまり買っていなかったのですが、『不平等との闘い』はあのときの人的資本の議論がより洗練されています。その意味で、続編と言ってもよいでしょう。こちらの方が格段によいです。

ある意味、ピケティという最終着地点があるから、書けた本だなと感じました。それがなければ、こういう形で着地はしなかったのではないかという気さえします。稲葉さん自身、リフレ派として旗をふってきたわけですが、それだけじゃなくて、ちゃんと経済成長論につきあってきて、さらに、スタートであった「労働」の考察を、中西先生や森先生の議論を踏まえて(そこから発展して法学の議論にも入っていきながら)、しかし、経済学の枠で位置づける、というなんとも律儀な作業をやっていると言えます。オーソドックスというか、本当に正面突破したなという印象です。その証拠に、稲葉さんの本なのに、全然脱線しない。すごく禁欲的に必要最小限の示唆だけ書いています。

不平等というか格差のときに問題になる「貧困」ですが、はっきり言って、貧困状態になる道は千差万別なんです。それは、社会福祉の領域では「生活」という概念で重要になったりするんですが、結局、相談事例を丁寧により分けて、ある程度の理念型を積み重ねていくしかない。その一つのお手本は『事例で見る生活困窮者』でしょう。ここら辺と接合するならば、人的資本論をテコにして出てきたソーシャル・キャピタル論で少しく接近していくしかないでしょうね。そうすると、ケアとかの領域に近いので、文化資本とか、そういうことも入ってきます。入ってきますが、やる必要があるかと言えば、どちらでもいいんじゃない?というのが私の感想です。

稲葉さんの議論の面白い点は、労働と資本という重要な二つを、まさに人的資本を媒介にしながら、人的資本と物的資本という形で資本に統一して捉え返していくところでしょう。だから、労働価値論的なものはそれ資本でも同じこと出来るからとばっさり否定されたりしています。まあ、そういう理論的なことはよいのですが、私も歴史的な視点から、資本・労働の具体的なイメージ、資本家像・労働者像もいまや刷新されないといけないとは考えていて、その点からも、稲葉さんの着眼自体は重要だと思うのです。

ただ、稲葉さんも以前から日本では金融教育が必要だとおっしゃっていたので、当然、よくご存じだと思うのですが、投資の大衆化の話は株式で止まっちゃ全然、ダメで、少なくとも80年代以降の金融革命が重要だと思います。もちろん、稲葉さんは旧来の熟練(技能じゃないよ、熟練だよ)を重視するところからは一歩進んで「情報技術」って書いてあるんだけど、その書き方は微妙で、ここのところをもうちょっと丁寧に書かないと、世には小学校からプログラミング教育を!などというトンチンカンなことを実現させようとする人たちがいるわけですから。

もう一つは、技能と密接な人的資本ということと必ずしも結びつけなくてもいいんだけれども、経済活動を長期で捉えるようになったことは重要だと思います。これは一般には長期雇用と結びつけられるんだけれども、必ずしも長期雇用だけとは限らない。明治以降、軍事費捻出するためだったんだと何かと評判の悪い、貯金推進の運動もそうです。インフレのところで触れていますが、あとはローンですね。これは19−20の世紀転換期の金融面での技術革新ですよ。それから、退職金と年金。この二つ目の論点は当然に金融教育の話とも繋がりますし、社会保障、とりわけ社会保険とダイレクトに関係するんですよね。

次はここからもうちょっと具体的に、政策提言というか、そういう形で絞って、また逆に、そこから具体的な問題として広げて考えてみたいです。
酒井泰斗さんから『概念分析の社会学2』をお送りいただきました。ありがとうございます。

私はアカデミックな社会学のトレーニングを受けたわけではないので、全然的外れかもしれませんが、多少の感想を書いてみたいと思います。といっても、私自身が関心があるのは、個別の研究では必ずしもなく、「概念分析」という手法についてです。私の個人的な印象ではエスノメソドロジーが出てきた1960年代というのは、古い意味での「社会」が変容せざるを得なかった時代ではなかったかと思うのです。この場合の「社会」とはすごく具体的な、たとえば日本語でいう「結社」とほぼ同じ意味でのsocietyです。分かりやすく言ってしまえば、都市の社会調査でも、農村調査でも、あるいは産業調査でも、その対象自体はわりと明確だった(都市、農村、工場)。ところが、人々の関係が複雑に絡み合ってくると、対象としての「社会」は不透明になり、プロセスに注目せざるを得なくなる。ですから、私は実はネットワーク分析とエスノメソドロジーは、プロセスに注目するという一点においてその閉塞的な状況を突破しようとしたところに、興味深い共通点を持っていると思っています。この点では酒井さんが社会学は政治学における国家、経済学における市場のような「拠り所となる制度的基盤」を持たないという見解とも呼応します(政治学における国家、経済学における市場がそのようなものかどうかは疑問ですが、特に政治学については)。

労働問題研究の分野では、史料による実証に固執するという意味で長崎造船の研究をするとき「葦の髄から天井を覗く」という表現を中西洋先生が用いましたが、エスノメソドロジーはまさに同じようなことが可能性としてあるのでしょう。小さい窓から天井をどれくらい正確に見えるかは、私の個人的な感想では、他のどの分野とも同じように、研究者の資質によるもので、うまく行く場合もあるし、下手な場合もあると思っています。それは個々の分析を評価するしかないでしょう。あとは、同じ問題は別の事例を分析した方がいいんじゃないか、というようことは出てくると思います。

読みながら、私が昔書いた論文、「1920年富士瓦斯紡績押上工場争議の分析」のときの問題意識は、概念分析と割と近いなと感じていました。要するに、この論文のポイントは、争議戦略を決めた友愛会が、工場や会社という枠組みを超えて「団結権」を認めさせようとしたところ、会社側が見事にその意図を見抜き、それをかわしたところにあります。ナショナル・センター(というか一般組合)としての友愛会、富士紡という会社、押上工場の労働者、協調会理事を務める財界人の社長・和田という、それぞれの属性による違いが、交錯するわけです。

組合は会社による組合干渉があったと主張している。それに対して、会社はそんなことはしていない、という。事実レベルでは、組合が組合費をその趣旨がよく分かっていない女工(10代の女の子です)から徴収していて、親から子どもを預かる工場側はそれはいかがなものかと注意したということです。これは解釈レベルではどちらも取れる。

これに対して、友愛会は具体的な話ではなく、協調会という立ち上がったばかりの労使関係を作ろうとしている組織の中心人物である和田社長が、お膝元で団結権の否定を認めるのか、と迫ったのです。言いがかりです。言いがかりですが、戦術としてはうまかった。しかし、そうこうしているうちに・・・あとは論文を読んで下さい。

何が言いたいかというと、「団結権」という概念をめぐって、それぞれの組織の秩序のぶつかりあいをしていたということです。手法としては会話分析を使っていませんし、その資料もなかったのですが、目指す方向は近いように思います。この事例は、ある意味、それぞれの組織秩序のぶつかり合いである点で、概念分析研究の興味深い事例になり得るでしょう。実際、私たちのように労使交渉の研究をする場合、そこは会話分析のような分析手法が生きている場面がたくさんあるでしょう。

昔、近経のトレーニングを受けて労働に近いところにいた友人が、制度学派の労働は一見、分かりやすそうだけど、実は最後のところが分かるかどうかでは人を選ぶし、壁が高いというようなことを言っていました。そのような壁を壊すためには、概念分析から学ぶところは大きいと言えるでしょう。むしろ、労使関係研究者がなぜ参入障壁の高い共通了解を持ちうるのかは、それ自体が概念分析の研究対象と言うべきです。

私は前作を読んでないので、その比較が出来ないのが残念ですが、この本が論文集としてまとまっているのは理論的な背景があるからでしょう。そのことがよく分かるのは事項索引です。「はじめに」「おわりに」「ナビゲーション」の構成は注目されるけど、事項索引の方はあんまり論じられないような気もするので、ここではそのことを少し。

この事項索引の最大の特徴は分量が少ないこと。これだけ多様な内容を扱っているのに驚くほど少ない。各章のキー概念をほとんど取っていない。たとえば、「神経多様性(1)」「連帯(2)」「アイデンティティないしアイデンティファイ(3)」「法的枠組み(4)」「専門職、医療モデル(5)」「標準化(6)」「機能障害(7)」「心の理論(8)」「学習(9)」「学級(10)」「知識管理(11)」「プラン設計、ユーザー概念(12)」「予測(13)」「組織化(14)」といったものです。もしインターネット上のキーワード検索のようなものを想定しているのであれば、こうしたキーワードは関連分野の読者を引きつけるのに役立つかもしれません。しかし、事項索引の項目はネットのページでも紹介されていないので、紙ベースで読むものと位置づけられていると考えてよいでしょう。つまり、これだけで完結しているわけです。

そう考えて眺めてみると、サブカテゴリーが付与されている用語が39のうち9、「概念」「可能性」「経験」「種、種類」「常識」「成員カテゴリー」「方法」「連鎖」「論理」であり、1回だけのものが「基準」「視認能力」の2つのみ、要するに、繰り返し使われているキーワードがあり、それがしっかり組織化されて網羅されている。だから、ある程度、この事項索引から立体的にこの本を読み込むことが可能であり、つまりはよく考えられて作られていることが分かります。我々、歴史系の研究だと注の質で論文の質を見ることが出来ますが、本当は事項索引の作り方でもよく分かるのです。もっとも事項索引の質が悪くても、多くは能力がなくて質が悪いのではなく、力尽きて作業しきれなかったものが多い気がしますが。それだけ根気がいる仕事でもあります。

本当は中身についてももうちょっと書こうと思ったんですが、力尽きました。続編はありません。そんなに時間もないので。まあ、ただ、いろんなことを刺激される面白い本であることは間違いありません。