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著者の皆さんから『資料集名古屋における共同保育所運動』をお送りいただきました。ありがとうございます。

これはすごい本です。1043ページ。11000円ですが、この重量であれば、倍の価格でもおかしくないでしょう。日本評論社もすごく立派な事業を行いました。冒頭に2016年流行語大賞で部門賞をとった「保育園落ちた日本死ね」の引用があり、これに対する返答という意味が込められています。もちろん、このボリュームの研究を一朝一夕に出来るわけもなく、本書は東海ジェンダー研究所が公益財団法人になった2012年から始められたプロジェクトの集大成です。しかし、お母さんたちの声なき声に応え、日本の保育を少しでも良くしよう、そのために名古屋での経験を伝えていこう、そういう気概でプロジェクトが進められてきたことはよく伝わってきます。

この本は社会運動を考えさせる本です。1960年代、働く母親たちが自分たちの必要から共同保育所を作り、そこから名古屋市に認めさせていきます。そして、やがてこれらの共同保育所は社会福祉法人になり、補助金を得て、経営的に安定します。この本はその黎明期の保育運動を描いています。

正直に言うと、私はこの本をすぐに読み込めるとは思っていません。そもそも私は保育に明るくないので、実践の豊穣さ、それを伝える資料の海の中に埋没して、そこから起き上がってこなければならない。本当に理解するためにはそういうプロセスは避けることが出来ません。ただ、それをやりますとは軽々に約束できません。読み込めたと思えないのに、書評を書くというのは私のポリシーに反しますが、これからどういうことを考えたいのかという個人的な思いと、これを利用することの難しさについて少し触れたいと思います。

私自身はおぼろげにもっていた日本社会運動史観というか、そういうものを根底から覆されるな、というそういう思いがしました。労務管理の歴史から入った私は、紡績をやっていたので、最低限の工場内保育所は調べましたが、このような社会運動については知りませんでした。というか、私のイメージでは、社会運動は完全に男の社会運動で、政治的なるものと切り離せない。この保育運動ももちろん、最後は行政に訴えかけて、それを認めさせるということですが、具体的な保育の探求と不可分な要求から積み重ねていくわけです。これは当事者運動の一つのパターンでしょう。

木村正身先生という社会政策の先生が昔いて、1970年代に社会福祉の考察をしているんですが、木村先生は福祉を反福祉からの回復という形でしか測り得ないのではないか、ということを書かれます。日本では基本的人権もしばしばそのように理解されます。たとえば、この同時代に展開した新しい社会運動たる環境運動も、やはり公害による反福祉状態から回復が重要な意味を持っていたと言えます。この共同保育所運動も、もちろん働く母親たちが保育の場を欲したという意味で、反福祉状態がスタート地点ということが出来ます。そして、その要求もしていくわけですが、実際にはこの運動のもっともすごいところは、家庭保育に対して集団保育の重要性を認識させることであり、そのためには保育の実践を積み重ねるしかなく、そして、それを成し遂げたことです。これは一つの社会改革であったと言っても良いでしょう。日置真世さん風に言えば、緩やかな市民革命です。

それと印象的なのは研究者が関わってるんですね。社会福祉研究の世界では「実践」が重んじられるというのは古くから言われてきたことらしいのですが、これを読むと、そういう意味が分かりますね(念のために言っておきますが、ここでいう「実践」とは単なる実務経験や実習を教えられるという意味ではありません)。

ただ、これを現代に活かすとなると、やはり難しい。歴史はそのままでは教訓にはなり得ない。やはり、歴史から学んだ人が現代の問題意識にあわせて書き直す必要があります。この本の場合、単に分量が多いので、心ある人はじっくり勉強したいと思うでしょうけれども、なかなかその時間は取れないという物理的な問題があります。ただ、それだけじゃなくて、たとえば「自主管理保育闘争」とかすごく面白いんだけど、その面白さを理解するためには「自主管理闘争」という労働運動史の方では馴染みのある考え方をしらなければなりません。これはほんの一例ですが、同時代の労働運動の流れとかを理解しないと難しいですし、そこからやるには相当の勉強が必要です。なお、大人の勉強というのは、頭の善し悪しなど大して重要ではなく、究極のところ、どうやって勉強時間や物を考える時間を確保するかだけが重要です。そういう意味で、この本だけでは保育運動を前進させるのは困難であり、やはりエッセンスを伝えるようなものが必要ですね。

私自身は本格的にこの問題を考えるのには少し時間が必要ですが、少なくとも今進めている本の中で、社会政策のプレイヤーとしての社会運動の中にこの話は入れて、考えていかないといけないと思っています。本の内容に反映させることだけはお約束します。
『擬制の論理』は戦前と戦後初期の議論を中心にしていながら、それでいて、現在の問題意識を鋭く反映させた問題提起の書であるが、古いスタイルにありがちだったポレミークな装いをしていないため、その性格は見えにくい。それは本書が過去の論争を通じて、どちらかの立場に立つのではなく、その論争という舞台に照明を当て、演者を光らせることに徹していることから来る必然にも思える。私が『日本の賃金を歴史から考える』を書いたときも、左右の対立、労使の対立のいずれかに立つのではなく、それぞれの考え方が理解できるようにと配慮したが、こういう書き方は新しいということで、驚かれたことが何度もあった。実は、私の書評も同じスタイルなので、もっと自分の主張を前面に出すべきだと言われたこともあった。こうやって後から考えてみると、今は理念先行のイデオロギー対立の時代が去って、新しい時代が到来してきたのかもしれないという気がする。

擬制の論理で面白いのは、著者が考証を重視する研究についてよくよく知っていて、それを限定的に使っている点である。2002年に羽生辰郎『マックス・ウェーバーの犯罪』という本が出て、ウェーバーをめぐる論争が活況を呈したことがある。ちょうど私が大学院生になったばかりの頃で、何しろドイツ語が出来ないので、その決定的な判断が出来ないため、丁寧に論争を追うことはなかったが、論争が展開される風景は興味深く眺めていた。考証による事実の訂正と、それに対するイザコザというのは、わりとどこでも見る風景であるので、そのことにはここでは触れない。ただ、私の周りではもともとウェーバーの考証については椎名重明先生の研究があり、そういうものをすっ飛ばして、あたかも世紀の大発見をしたかのように言うことに疑問を持つ声があった。丸山眞男についてもほぼ同時期に似たようなスタイルでの研究が出た。安川寿之輔の『丸山眞男と福沢諭吉:「丸山諭吉」神話を解体する』である。私も20代の頃は、歴史研究者として、資料の正確な読解による考証ということに惹かれていたので、考証によってことの成否が決まると考えていて、その文脈でポパーの反証可能性の議論をよく聞いた。

ただ、もう一方で歴史研究においても、その研究者は自らが生きる時代から自由ではない、ということも聞いた。このことを仰っていたのは武田晴人先生で、日本経済史研究の研究史を勉強していく中でそういうことを学んだ。現代の問題意識と歴史の関係という点では、カーの『歴史とは何か』岩波新書を誰しも思い浮かべるであろう。この点では今年亡くなった安丸良夫の民衆研究もそうであったと思うし、よりナイーブに自分との語りという形で展開して見せたのが阿部謹也と言えるかもしれない(『自分のなかに歴史を読む』)。だが、武田先生たちの世代は、講座派的な運動的志向を持った先輩たちに、史料が語る事実をもって反論してきた、すなわち、客観的志向が強かったにもかかわらず、その時代から自由ではないという点がカーたちとは違う。そこが面白い。

山内史朗『誤読の哲学』という本があって、哲学者が過去のテキストを誤読、もっと言えば意図的に文脈を切り離したり、読み替えたりするなかで新しい哲学が展開した、ということを描いている。この文脈の読み替えこそは、その時代に制約された問題意識を反映している。丸山のように同時代人たちに大きな影響を与えた人物は、その読み替え自体が研究対象であり得る。これは丸山門下の松下圭一や堀尾輝久についても同じ事が言えよう。

そうやって考えていくと、松田先生の丸山分析は、丸山の読まれ方という時代的な問題の剔出と、フィクション(虚妄)という着眼への評価の二点に特徴があるといえる(前者は5章、後者は6章)。ただ、とりわけ後者の読み方については、丁寧に丸山の着想になったであろう先行研究が検討された上で分析されているのだが、松田先生によるフィクションではないかという気も実はちょっとしている。もちろん、それを判定するには本文および注で扱われている文献を再検討するというのが学問的手続きであるのだが、私は別に当該分野の研究者ではないので、どちらでもよい。しかし、あえて私の希望を言うならば、フィクションという概念を巧みに使ったこの研究がその主張自体もフィクショナルな性質を持っていて欲しいと思うのである。それもまた思想と言えるだろう。
松田宏一郎『擬制の論理』を読み始めたら、面白い。少しずつ考えておいたことをメモしておきたい。というか、本当はこのブログはそういう趣旨で始めたものだし。

まず、「序」から始めたいわけだが、この短い間のなかで深く検討すべき論点が既にたくさん含まれている。松田先生の立場は、きわめてプラクティカルである。真理に到達する方法など確立されていないのだから、セカンド・ベストであっても現実的な「擬制」を利用するということが重要である、というものであろう。

冒頭、イェーリング、ブラックストン、ベンサムの言葉が比較されているが、ブラックストンはコモンローを重視した人で、ベンサムは制定法を重視した人と言えるだろう。大まかに言って、最初の二人は自然な法(ロー)の発見を重視、ベンサムは人為的に制度を設計するのを重視、と分類していい。法の発見というときの法は絶対神、ないし絶対的な法則と言い換えてもいい。その方法はないので、セカンド・ベストとして擬制を重視するという話である。これは西洋で発達した統治技術で、日本でも明治以降にこういう問題を取り扱わなければならなかったということである。

どうも松田先生の論の運び方を見ていると、擬制には政治的とつけてやや厳密に理解した方がよいのだが、政治的から離れても通用するような一般的な理解でよい場合をちゃんと意識しているな、というところがあって、そこのバランス感覚は絶妙である。たとえば、荀子と徂徠の「道」概念が出てくるのだが、この例示がもし老子だとうまくいかない。老子は言葉で言い尽くせない「世界、ないし宇宙、ないし存在の法」のようなものがあって、名前のつけようがないけれども、とりあえず「道」と呼んでおこうといって議論が始まる。荀子、徂徠の議論も当然、これを踏まえているのだが、礼楽刑政まで来ると、ぐっと政治的擬制という意味合いが強くなる。松田先生の言う徂徠の意図は制度は正しい道に則って運用されなければならないということだろう。だが、「道」の考え方は、キリスト教でいうところの否定神学における「神」の扱い方に近いので、具体的にどうやるかは別にして、自然法のような形で展開して、法思想になってもおかしくないのではないか。というところに、深入りしないのが松田流である。これ、突っ込んでいくと、普遍論争のような話になる。というところから話を展開してもいいが、名前が何を表すのかというのは、この本の次の展開として、作られた擬制がどのように機能するのか、ということは当然、次に考えられるべき課題になってくるだろう。

ロミオとジュリエットに出てくる有名なジュリエットの「バラの名」の台詞がある。モンタギューの名がなんだというの、バラをバラと呼ばなくても甘い香りがするじゃない、名前なんて意味がないわ。という内容である。その一方で、名前そのものがその人の記憶や存在そのものを表す場合もある。2016年に大流行した「君の名は。」にもそのモチーフがあるし、歴代興行収入トップの「千と千尋の神隠し」にも実は同じモチーフがあった。名前を奪われると、その存在までも失われるのでは、ある機能に名前をつけましたというような、ただ(唯)の名前だというわけにはいかない。というか、日本の神話的世界ではわりと王道である。では、こういうところをどう考えていくのか、というのは問題としては面白いが、面白いのでまた取っておこう。

とはいえ、方法が確立されていないので、それを有用性において割り切って利用しようという発想は、きわめて日本的な解かもしれない。この点では松田先生の立場は尾高朝雄の「法哲学における形而上学と経験主義」にも似ている。尾高は経験というのは未熟なもので、だからこそそれが修正される点を重視する。そして、その考察を進めて現象学にたどり着いていって、それはそれでよいのだが、実は方法がない、と言っていたところがそうじゃないという立場がある。簡単に言えば、秘教、行の伝統である。近代ではもっとも有名なものの一つは、スピリチュアル界隈では「いか超」という略称で呼ばれるシュタイナーの行論であろう。まあ、人間が一人残らず、覚者になれば、擬制などはいらないかもしれないが、思考実験としてもあまりに現実から遊離しすぎている。結局のところ、「擬制」の作りものの性格(これはだから偽りであるとは限らない)を前提にするというのは、プラグマティックではないかもしれないが、プラクティカルには有用であり、私もすごく共感する。
企業史料アーキビストの松崎裕子さんからエリザベス・シェパード,ジェフリー・ヨー『レコード・マネジメント・ハンドブック』日外アソシエーツをいただきました。ありがとうございます。本と一緒に送り状をいただくことはよくありますが、お手紙を別にいただくのはまれです。几帳面に書かれた宛名を見ながら、いかにも松崎さんの丁寧なお人柄が感じられるなあと思いました。

松崎さんのお手紙には、ハンドブックなので全部を読み通さないと理解できないという性格ではないが、訳者序文から第1章までは本書のエッセンスが述べられた部分なので、一読をお勧めしますという趣旨のことが書いてありました。訳者序文にはこの14年も前に出版され、電子的な環境その他が変わったにもかかわらず、この本を翻訳する意義として、原則を共有することが出来るという考えが述べられていました。これは非常に重要なことと思います。

実はこの本が出版されるのは、Facebookを通じて知っていましたが、あんまり手に取るつもりはありませんでした。それは私自身が出来ることが限られていると思っていたというのが第一、現にできることは粛々とやるしかないし、理想的な方法を知っても現実との落差が悲しいだけだと思っていたからです。ただ、実際に手に取ってみて、その考えを改めました。

この本はアーカイブズ関係者以外にも非常に有益であることを強調しておきたいと思います。まず、狭い範囲で言えば、社会科学系の研究者は得るところが大きいと思います。つまり、自分が使うデータとはどういう性格を持っているのか、ということを外形的な部分からの分析が述べられているからです。だから、データセッション的な研究会に関心がある向きにはお勧めだと言えましょう。

そして、何よりこの本は記録管理、アーカイブズ(文書)管理の本です。何らかの記録を体系だって整理するということは、組織である以上、どこでも生じうる必要であり、ということは、組織にかかわる人であれば、この本は実務的に得るところがあります。特に、「第2章レコード・マネジメントのコンテクストを分析する」が重要です。なぜか、文書を整理するためには、その文書がなぜ作成されたのかを理解しないといけません。そうであれば、その文書を作る組織に注目せざるを得ないのです。ですから、第2章は事実上の組織論です。というわけで、経営学、それから、社会学の古いシステム分析なんかに興味がある人にもお勧めできます。

言ってみれば、記録管理は組織の情報処理(あるいは管理)で、まさに組織の命脈です。もちろん、これがあれば、それだけで戦略を立てられるというようなものではありませんが、逆に言えば、使いこなせれば、すごい武器になりうるということです。私としては、企業もそうですが、政党、組合には特にこの本を読んで、組織戦略を考えるきっかけにしてほしいと思います。もちろん、全部を丁寧に読む必要はなくて、さらっと読み流せばいいんですが、実務をやっている人は現場の勘があるでしょうから、それでも響くところは響くはずですし、それで十分です。ただ、そういう刺激を与える本だと思います。

というわけで、おそらくはそんなに売れないだろうと思いますが、広くこの本をお勧めしたいと思います。

最後に、ファイリングは専門職です!と言っておきましょう。

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友人の畠中さんから『地方都市から子どもの貧困をなくす』をいただきました。ありがとうございます。この本は、大原社研の大原社会政策研究会で志賀さんが報告した後の飲み会で意気投合した二人が中心になって、九州宮崎の貧困の実践活動を調査し、その問題点を広く社会に訴えようとした、そういう本です。というか、私、飲み会で畠中さんの隣に座っていて、その前が志賀さんだったんだけど、そんな話してたんだ。歴史的証人(?)になり損ねた感がありますな。仲間の書いたものなので、なんとかバックアップしたいという気持ちは大いにあるんですが、正直、手放しで勧められるかというと、難しいなというのが初読の感想です。

この本でアトラクティブなのはタイトルと事例、それから「プロローグ」「エピローグ」です。それぞれの「想い」が伝わってきます。一般書ですから、アカデミックな価値観だけで、評価する必要はないと思いますので、むしろ、この「想い」の部分がよいということをまず、紹介しておきたいと思います。実践的な活動をするのは、迷いながら進めていくしかないとするならば、この本はあれこれを考える格好の材料であることは間違いないです。それから、パッションがもたらす、熱というか、そういうものが間違いなくこの本にはあります。その意味で、こういう問題を考えている同志がいるという勇気がほしいひとはそれだけで手に取る価値があります。

圧巻はやはり、宮崎で「のびのびフリースペース」をやっている喜多裕二さんの事例編でしょう。とにかく、子どもたちの具体的な事例が紹介されていて、圧巻です。最後に経済的な貧困があろうとなかろうと、心の貧困を抱えているという認識が示され、結論ではとにかく「聴くだけ」の重要性が語られています。喜多さんの二つの章が説得力を持っているのは、もう経験から出た言葉だから、という一点に尽きると思います。ただし、この「心の貧困」が本書全体を貫くキーワードになっているんですが、それがよかったかどうかというと、私ははっきり言って反対ですね。それはこの本が誰をどういう形で説得しようとしているのかということにもかかわるでしょう。

この本では、アカデミシャンたちは貧困をより構造的に掘り下げて理解しようと模索していますが、その結論はより多くの市民(ないし住民)が「子どもの貧困」関心を持って、活動に参加すること、になっています。しかし、そうだとすると、宮崎やその他の地域でもよいですが、何かを始めようとする人たちにそうした多様な情報がどれだけ必要なのか、とりわけ入口時点でどれだけ必要なのかという点では疑問です。そういうことは、活動をしていくなかで、徐々に掘り下げていけばよいのであって、最初からそういう100年かけて解決するような問題に取り組むんだというような意気込みは、かえって多くの人をしり込みさせてしまうのではないかという感じがします。でも、そういう情熱はアカデミシャンとしてというより、彼らの若さなのでしょう。

それから、もう一つ。これが「心の貧困」という概念を中心に掲げることの最大の理由ですが(ほかにもありますが、今回は一つだけ)、「心」の「支援」はしばしば、問題のある人を引き込みます。というか、自分の「心」にも問題があるのに、それをちゃんと見つめずに他人を救おうという行動に出て、その実は自分が救われたい、というタイプの人です。これは今書いたいろいろな部分をちゃんと認識している場合と、無意識の場合があります。そういう人がいると、かえって事態がややこしくなります。もちろん、交流の中で成長していくことはあるので、完全に排除する必要はないですし、実際に来て一緒にやるという段階になったら、受け入れて一緒にやるしかないんですよ。しかし、だからこそ、「心」を前面に打ち出すのはどうかな、と。

このように考えていくと、喜多さんがおっしゃるただ聴けばいいというのもハードルが相当に高い。相手を逸らさずにまっすぐ話を聞くというのは、単なるテクニカルな話法的なものだけではなく、それを受け止める、あるいは必要以上に受け止めない、そういう微妙な覚悟が要求されます。正直、かなりむつかしい。何がむつかしいかというと、どうしても自分の判断を挟んでしまうんですよ。さらに、自分なりの結論を先に出して、解決策を提示したくなる。その衝動に耐えられない場合は、相手の話を途中で遮ることになります。もちろん、テクニカルに話を遮る必要があるときもあるでしょうけれども、多くの場合、それは相手に自分が拒絶されたと感じさせるでしょう。この問題のむつかしいところは、これを自然にできている人もいて、そして、しばしばその人たちは自然にできてるからこそそれが簡単だと思ってしまっているということにあります。ことの性質上、仕方ないんですが。しかも、解決策を提示しなくてはと気負うと、この子どもの貧困のような複雑なケースでは実際には無理なので、自分の無力感を育てることになってしまいます。

そうすると、裾野から広げていくには、昨今の子ども食堂でもいいんですが、場を作って、そこで何気ない他愛ないおしゃべりをするということが重要ではないか、と思います。それは支援者側に焦点を当ててたプランです。つまり、入りやすくするために、ということです。実際には、そういう場さえもしんどいというか鬱陶しい、むしろ、キラキラしている感じが嫌な子たちもいるでしょう。だけど、そういうところで救われる人もいると思います。ただ、そのときに気を付けなくてはいけないのは、解決策は提示できなくても気にする必要はないんだ、ということだけは共有しておくことでしょう。

私、本当は自分がかかわっていない運動、あるいはコミットする可能性がない運動に、提言するのは好きじゃないんですが、ちょっと彼らの情熱に当てられましたね。ただ、アカデミシャンとして参謀的に参加するならば、全体を鳥瞰する戦略と、それを実現するための一つずつの手段は両輪で、考えた方がよいんじゃないかと思います。そうでないならば、そういうもの(分析)は全部投げ捨て、一兵卒としてできることだけをやるしかないと思います。アカデミックな観点から考えて納得できない部分については、将来、研究書が刊行された時点で、しかるべき形でやることにします。