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前回のブログのなかで、被災地で心理的ケアなどをやっても、焼け石に水であると書いたところ、ツイッターで拡散される過程でいくつか両方、大事なんだよという意見などもいただいた。それはそうなんだけど、説明するのも難しいから放っておいた。しかし、昨日、参加してきた岩手大学三陸復興シンポジウムのなかで、多分、カウンセリングの勉強中ですが、資格が取れたら、ぜひ被災地の方のためにお手伝いしたいという申し出をした方がいらっしゃった。後者は残念ながら、何重の意味でも不幸な勘違いである。

まず、カウンセラーや教師、保育士あるいは福祉職というのは、資格を取った瞬間に一人前になれるわけではない。ここでいう一人前というのは自分が人に教わらなくとも一通りの仕事が出来、かつその仕事内容を新人に教えることが出来るようになるというレベルである。そういう能力はOJTで培っていくものである。対人関係の仕事は経験が重要であることは言うまでもないだろう。

そもそも、東北の人の気質は関東の人間とは違う。さらに、関西の人間とはもっと違う。地域による差というのは厳としてあって、それは首都圏内くらいだったら、気にならないかもしれないが、東北被災地に行くとなると、決定的に違うと言わざるを得ない。ということは、そもそも震災があろうとなかろうと、そういうところに入って行ってコミュニケーションを取るのは困難なのである。お店に入ってそういうサービスを期待するのは難しいかもしれないが、旅の人として道で話しかけたら、意外とうまくいくかもしれない。いずれにせよ、こうした条件に震災という大きな経験が加わるのである。ハッキリ言って、難しいの上に、いくつか難しいを積み重ねないと表現しきれない状況である。

そうして、根本的な勘違いは私のみるところ、心理職は資格によるべからずという原則が理解されていないということである。どういう事かと言えば、プロの技能をもっていて、それに矜持を持つのはとても大事だが、とりわけ自分でもちゃんとできるかどうかの不安を資格を取ったのだから大丈夫といった心のよりどころにしては絶対にいけないのである。この弱さは人を傷つける。それは震災であろうとなかろうと関係ない。そういう意味では、超高度な技能や経験を持っていない中途半端なカウンセラーや傾聴をやりたいだけのボランティアなどは不要であるどころか有害でさえある。

これに対して、案外外からの支援でうまく行くのは学生などの若者である。たしかに、私が経験した中でも、某関西の大学の学生のように救いようのない愚か者はいる。しかし、概して今の若い学生は謙虚である。したがって、普通に話をよく聞いて、それから後、自分たちのやるべきことを考える。そういう姿勢が多くの人を救う。しかも、そうやって誰かが明るくなると、みんなでその話を共有して、全体がまた、明るくなる。若さゆえの無垢というのはたしかにあるのだ。同時に、彼らもやはり、数年経験してくると、壁にぶつかる。そうなったときは、まわりがサポートできなければならない。

もちろん、学生じゃなくても長く支援活動に従事するうちにみんなと仲良くなって話を聞く機会の多い方も多いだろう。震災からこれだけ時間が経って、嫌われていない人は大丈夫である。そういう人たちは継続して活動し、一緒にいるだけで力になっている。難しいことを考える必要はない。ただ、聞いているだけで負担になる人は、罪悪感に囚われる前に誰かに相談した方がいい。私だったら相手が抱えている問題にも同化しないことを一つの方針としてお勧めするが、プロにアドバイスを受けた方がいい。プロを探すのは難しいが。

もう一つ、根幹の原理原則は地元の人の面倒は地元の人同士で声を掛けあうのが一番よいということである。沿岸地域で仮設支援員が少なからぬ混乱を引き起こしたのは、そんなものがなくても、自分たちでやれるという主張があり、しかもそれが本当にそうであったということが少なからずあったからである。これは福祉や支援の原則である「自立」の体現である。また、仮設支援員が急造されたために、技能が追いついていない場合があった。こういうものは誰にでも出来るわけではない。やはり、向き不向きがある。向いている人だけで人材を充足することなど出来ない。それは望外というものであろう。

ここがとても難しいところである。ハッキリ言って、私だったら、すっかりやる気になって新しいものを作ろうと今、もう取り組んでいるところに、津波被災で大変な経験をして気の毒だから支援したいと今さら投げ掛けられても、モチベーションが下がるだけである。そういうピント外れの支援を、私だったら一刀両断だが、被災地の人たちは慎み深い東北人だからそんな無碍な扱いはしないし、第一、支援を受けてきて、そんなことは申し訳なくて出来ないだろう。私が一刀両断できるのは、性格を別とすれば、私も支援者という立ち位置で同じだからである。それから、そもそも、たいへんな津波被災に同情する程度の根性では今、被災地で起こっているリアルタイムな悩みを引き受けることは出来ない。悪いことは言わない。やめた方がよい。誰のためにもならない。

こうした問題に取り組めるのは限られた人しかいない。外部ではそういうことに経験が深い団体、あるいはプロ、である。地元ではお寺さんや地元の世話役をしている人が図らずもそういう役割を担っている。行政、社協が頼りになるとは限らない。場所による。外部の人間はこれからこうした問題に関わっていくのならば、10年は継続する覚悟でやらなければならない。

私自身は被災者の心のケア支援などという特別なことはしていない。心のケアが何かは一応、こうやって考えてはいるけれども、それは被災地支援で心のケアや傾聴がどうしても重視されがちだからであり、そうである以上、総合的な視点で復興を考える私の立場からは、一つの現象として理解しておく必要があるからに過ぎない。私にとっては学生であれ、被災者であれ、友人であることに代わりはないので、話をしたいと相談されれば受けるし、また、会話の中でそういう展開になれば、結果的に長く話を聞いたということもある。それだけのことである。
さっきまで、大槌町の大ヶ口集会所で開かれていたNHKの収録に参加していました。POSSEの渡辺君が話をするというので、どんなもんだろうと聞きに行ったのです。出てきた論点はそれほど真新しいこともなかったですが、いろいろと聞いて、頭の中の整理にはなりました。

岩手沿岸部、とりわけ大槌を中心に考えるなら、一番の問題点はコミュニティが分断されてしまったことなんですね。働かない人のなかに働く気持ちにならない人もいるという意見が強くあって、その背後にあるのは不安感だということが語られていました。いろいろと話が行き交ったのですが、私が聞いている限り、つづまるところ、震災前には強力なコミュニティがあって、みんなそこに強く結びついていた。それがなくなったことが、そういうものがあまりない地域で暮らしている私のような者から見ると、想像できないほどの不安感を呼び起こしているんだろうなということを感じました。

じつはこれに対する対策はほとんどとられていません。研究者の中には、それが必要であるということに気が付いていた人はそれなりにいましたが、衆寡敵せず、ほとんどそれを知ることは出来ません。政策面で見ても、この問題を克服するような施策が打たれているかと言えば、必ずしも打たれていないのが現状です。

具体的に行政のセクションで言えば、生活は福祉の問題であり、雇用は商工労政の問題です。また、生活に関わる育児が重要であるという観点からみると、教育もまた関連します。これは中央官庁の系統からいえば、厚労省、経産省、文科省がそれぞれ関係します(保育は厚労省ですが)。役場の中でもこうしたセクションの連携はとれていません。とれていませんというか、とらなければならない、という事態は震災を機に進展したのです。たとえば、福祉セクションは震災後、ボランティアの対応に追われ(それはそれで重要な局面もありましたが)、通常の福祉行政が出来ない状態でした。従来の福祉施設も震災のダメージを受けており、たとえば、就労の面で仕事がなくなるなどの状況に直面しており、従来の領域の福祉行政でさえも仕事は増えているのです。これに付け加えるのは無理です。

現場レベルではこうしたことが無理であるのみならず、中央の方もほとんど事態を理解できておりません。今なお、2000年代に問題になった非正規問題に縛られる形で、正社員化こそが至上命題のごとく考えられているのです。さらに、ミスリーディングなのは、有効求人倍率ばかりに捉えられているわけです。これは専門的に言えば、潜在失業を考えていない。日本の有効求人倍率はハローワークに行って求職活動した人のみ求職者にカウントされます。大槌から釜石小佐野にあるハローワークまで車がなければ、片道500円以上、往復で1000円かかります。求人情報はたとえばマストやローソン、役場でも配られています。ということは、実際にハローワークまで出向いて、求職活動をするのはまさに応募するときなのです。ということは、求人倍率は多めにカウントされていろと考えて当然でしょう。

コミュニティの崩壊は不安感を引き起こしているだけではありません。昔ながらの「子どもは宝」という文化が残っている沿岸部では、当世流に言えば、社会的子育てが実現できていた側面があります。ところが、これが出来なくなってしまった。そうなると、女の人たちは育児、介護等で時間が割かれ、ますます仕事に行くのが困難になってしまった。さらに、仮設住宅で職場と家が遠くなってしまった。バスで送迎があったとしても、時間的にかりに片道15分だったとしても往復で30分かかります。主婦にとって30分は結構、大きい。これに拘束時間が長ければ、ほぼ立ち行かなくなります。また、通勤手段を自分で持たないということは、かりに子どもが熱を出して迎えに行かなければならなくなったとき、職場で帰ることが許されても、実際には迎えに行けないわけです。もちろん、人手不足の会社がこれをフォローするのは無理でしょう。

渡辺君がブラック企業というより、震災以降の雇用条件が悪くなっているということで呼ばれましたが、被災地全体で荒んで暴力的になっているのはじつは職場だけでなく、家庭でもそうであり、DVの問題も増えています。仙台のブラック企業の話は都会の話なので、今野君が言うようにこれに対抗できるのは組合ですが、組合が問題に気付くのにも遅いので、これを少しずつ啓蒙して行くという段取りで間違いありません。すぐには解決できませんが、POSSEに引き続き頑張ってもらうしかない。それ以外の話は大槌、釜石でもありますが、解決は難しい。少なくとも今の私の立場では解決策は容易に提示できる状態ではありません。というのも、一般論を述べても仕方ないからです。

よく被災地の心のケアといいますが、心のケアはじつは大して役に立たない。はっきり言って焼け石に水です。もちろん、対処療法としてはやった方がマシですが、これだけ大量に出現し始めているということは、地域の社会問題なのであって、それを解決しないことには解決できないのです。あとは、支援者と被災者あるいは後背地の方も含めて消耗戦です。

この他に住む場所の問題、復興計画の遅れなど、様々な複合的な要因があるのは言うまでもありません。こらはいずれも今のとても厳しい状況です。でも、すべては正確な状況把握から始まるほかないのです。とりあえず、メモ代わりに、公にしていいことだけ、書いておきます。
何度聞いても、名前を覚えられない・・・。昨日、大槌・釜石地区の住民会議に出席しました。初めての試みといっても、僕も含めて、学者の方も何人も入られていて、みなさん、黒子役に徹していました。僕は喋っちゃいましたが。正直に言うと、今後の課題も多いと思います。でも、第一回としては大盛況だったと思います。個人的な失敗は片方の襟がセーターが出ていない状態でNHKさんのニュースで放映されたことでしょうか。髭もそってないし、ひどい・・・。

それはともかく、僕が何を喋ったかというと、安渡のお母ちゃんたちの気持ちを代弁したんです。スタートから昔の良かったことを話してもらいました。その後、震災後、どうしたいかという話をしました。次に町方の人の気持ちも聞いたんですが、それは全体ではお話ししませんでした。タイミングを逸したというか。

震災で近所がなくなってしまった。友人は遠く離れて会えない、内陸に行った人もいる。小さい子どもも高齢者も一緒に安心して暮らせる住みやすい町になって欲しい。というのが彼女たちの一番の願いでした。これだけを聞くとそれはそうだよなという内容ですが、じつはそこには震災前の具体的なイメージがあります。

大槌町安渡はもともと住民の繋がりが強い地区で、公民館運動もさかんでした。そこでは公民館まつり(芸能発表会あり)、盆踊り、部落運動会、世代間交流としてさつまいもを一緒に植える、小正月のみづきだんご作り、8月6日の大仏さんまつり(つけげまんじゅう)、六大工さんで安渡小学校の児童が新巻鮭づくり体験(六大工さんは今は大ヶ口で旅館を経営されています)、漁協婦人部と安小児童によるさけ汁づくり体験、小学校低学年のさけの稚魚放流といった年中行事に、月一回のお茶っ子。このお茶っ子は高齢者が自分で歩いてきて自分で歩いて帰るのがポイントだったそうです。

でも、大槌では小学校も統合され、安渡小学校は廃校になりました。震災前は水産加工があって、そこで若いお母さんたちは働いて、安渡保育所に子どもを預けていました。今のままで果たして子どもたちは戻ってくるのか、それがみんなの心配ごとでした。また、住む場所も問題です。住む場所の問題というと、すぐ浸水域か高台かといった話になりますが、ここで出てきた話はそういう種類の話ではありません。まず公営住宅に個人だけでなく、希望地域で入れて欲しいということでした。さらに、震災で家族を亡くされたお母さんたちは、長年住み慣れた安渡に残るのか、実家に戻るのがよいのか、迷っている方もいるそうです。

僕は発表のときに、コアな安渡の話をします。といって、語り始めたわけですが、神は細部に宿り給う、実は問題は安渡にとどまらないわけです。やはり同じような地区を超えて課題を抱えていて、だからこそ一般性、普遍性を読み取らなければならない。最後の家族を亡くしたお母さんがどこに戻るのかというのは、ある意味、沿岸の地域的な構造をビビッドにあらわしているのです。沿岸は地区の連帯、あるいは縛りがとても強いけれども、実は女の人たちは結婚によってその縛りを超えていく。沿岸では離婚率が高く、ことに吉里吉里などはいわゆる出戻りが多いといわれています。統計的にとったわけではないので、正確かどうか分かりませんが、吉里吉里はお金を持っている人が多いので娘を呼び戻すと聞いてきましたが、多分、吉里吉里に限らず、子どもの頃から地域で育てられているので、受け入れる包容力があるのだと思います。でも、若いうちに戻ってくるのは戻って来やすいかもしれませんが、何十年経つとやはり、状況は変わってくる。長く暮らした土地がよいのか、自分の故郷の地区がよいのか、正解はありません。ただ、そこに難しい問題が横たわっていることはたしかです。

この企画を持ってきたグループが防潮堤反対というか、防潮堤を考え直すという志向を持っていたので、ニュースなんかはそういうところがクローズアップされたけれども、住民の意見はそれだけにとどまらなかったんです。そして、そのことの方が重要です。

僕はすごく印象に残っていたのは赤浜の古舘さんでした。古舘さんは大槌婦人連合会の副会長でもあるんですが、はまゆりの復元プロジェクトを推進しようとしています。個人的には僕はこの案にあまり賛成ではないんだけど、古舘さんが女のくせにとか暴力的に最初から話を聞いてもらえないことが多い、だから、そういう風にさえぎらないで欲しいということをおっしゃって、その勇気にとても心打たれました。

超えていくべき課題は防潮堤だけではないんです。とりあえず、お母ちゃんたちの知恵を聴いて、それを町づくりに活かす、そういう経路をちゃんと考えたいなと僕は思いました。他にもいろいろ思うところはありますが、それは追々、書いていきましょう。
去年の年末、おらが大槌復興食堂の夜の部がスタートした日、僕は久しぶりにゲンちゃん(下玉利元一)に会いに行った。彼は仕事をしていたので、その間、そこに客として来ていた阿部兄弟とひろよちゃん、それから大槌スタンディングスタンディング(SDSD)のリーダー岡野君に混ぜてもらって、同じテーブルについて話をした。でも、僕もなんとなくうまく話題作りもできなくて、ただ何度も岡野君が僕の出身校でもある法政というつながりで、まるで空白を埋めるように江川江川と言っていたのは覚えている。僕らが話をしたのは「支援」についてだった。彼らは物資支援を受けないでやってきた、という。もらい慣れこそが自分たちをダメにししてしまうと思った。実際、そういう人たちも出ている。だから、俺たちはもらわなかった、と。その一方で、初対面の僕にさえも、町に足を運んでくれた支援者への感謝の気持ちを繰り返し話してくれた。あれからいろいろな場で何度か顔を合わせることはあるけれども、その後、親しく話をする機会はない。でも、僕は君たちがあの晩、僕に示してくれた友情を忘れたことは一度もない。だから、あえて誰も面と向かって言わなかったことを言おう。おおつちありがとうロックフェスは間違っている。

僕は去年の夏、本家の復興食堂を土方君たちと東京に呼んで、一緒に代官山店をやった。復興食堂はもともと、テっちゃん(松本哲也)とゲンちゃんがみんなが笑って話せる居酒屋のようなところを作りたいということで始まったプロジェクトだ。炊き出しでも、ちょっといいものをみんなに食べてもらいたい、そういう思いで走り抜けた。復興食堂の仲間はもともとの知り合いで、そのころ、毎週末、三陸沿岸で必ず炊き出しをやっていた。みんな素人だから、テントの扱い方も知らずに借りたテントを置いておいたら飛ばされちゃって、後で弁償したという失敗話も代官山の夜に聞いた。そういう経緯なので、僕は彼らが県外に出てくるのを最初、ためらって、そこでどんなやりとりがあったのかも知っている。でも、結果的に彼らは県外に出てきた。そして、被災地外と被災地がつながる、それが継続的な支援にとって必要なことだ、ということを知ったのだ。

ちなみに、今はどうか分からないが、支援すると言って当時、関東で彼らを呼ぶところも、謝礼どころか交通費さえも人数分、出さないところもあった。これは復興食堂だけに限ったことではない。みんなは知らないかもしれないが、東京で現地の支援団体を支援するといいながら、結果的にはそのイベントのネタにしているだけのところも少なくない。呼んでくれる方もみんなが必ずしも賛成してくれるわけではないから、自分の裁量で一生懸命働きかけて、何とかして支援しよう(最近では風化させないようにしよう)という気持ちで動いている。だからこそ親分(内輪だけ分かるように名前は出しませんが)も「足が出ても、行かなきゃ行けないときもあるんだよ」と語っていた。彼らからすれば、僕がこんなことを書くのも快く思わないだろう。ただ、被災地外の支援者は今後もこの事実をよく考えてほしい。本筋じゃないけど、大切なことなので書いておく。

復興食堂の名前を大槌で使わせて欲しいという申し出があった。彼らはそれを受けた。「おらが大槌復興食堂」が誕生した。そして、ゲンちゃんは単身、大槌に移り住み、おらがで一緒に働きだした。一スタッフとして。彼は支援者という言葉にこだわったが、僕の目から見れば、彼はおらがのSDSDと友人になった。もともと彼らを結びつけたのは石垣ロックフェスティバル前夜祭。どこまで書いていいのか分からないけど、ゲンちゃんは盛岡のいしがきミュージックフェスティバルにも関わった一人。そこでSDSDは自分たちの手で大槌でもロックフェスをやりたいと願った。その彼らが念願のロックフェスをやろうとしている。その目前まで迫っている。ひろよちゃんたちが一生懸命、募金活動をしてきた姿もFBを通じて見てきた。みんながどんなにこのイベントを楽しみにしているのかもよくよく分かる。

今年の3月13日の夕方、沿岸部に津波注意報が発令された。沿岸部の町はパニックに陥り、大槌町では町役場の人たちが全員、城山に避難し、県からの連絡がまったく取れなくなった。大震災の日、加藤町長をはじめ、町役場の精鋭たちが被災後に勇敢にも対策本部を立て、津波で亡くなってしまったことは町の誰もが知っている。だから、僕は逃げたこと自体を責める気はない(ただし、その逃げて打ち捨てるような場所に、昨年決めたとはいえ8億円をかけて、新しい町役場を作ろうとしているのは正気の沙汰とは思えないが)。みんな忘れていた津波の記憶を思い出したのだ。

話は変わるが、釜石市の大町では多くの居酒屋が再開している。そこに入っているのは、建設関係やボランティアなどの外部の人たちだ。地元の人はそんなに頻繁に飲みに行く余裕がないという経済的な事情もあるかもしれないけれども、何よりも津波浸水区域の真ん中で飲み食いをするのは危険すぎる。彼らは津波の本当の恐怖も、避難路さえも知らない。もし、夜、次の津波が来たら、全滅だろう。常々、そんなことを考えて釜石を歩いている中で、一昨日、こちらの大学生と話をした。自分は被災地に行ったけれども、友人ではまだ行ってない友人もいて、ありフェスに行きたいと思っている人が多いそうだ。関東にいて、東北のことを思っているけれども、何もできていない自分にもどかしさを感じている人たち、何かきっかけを探している人たちが数多くいる。でも、彼らは城山に急いで逃げなければばならないことを知らない。そんな人たちが君たちが企画したロックフェスに当日、急にやってくる。彼らは支援者ではないかもしれない。でも、君たちは全国から大槌を思う人たちを呼んでいるんだ。その人たちの命を守れるのか。

不意の災害があって、仕方なく誰かを救えない、という話じゃないんだ。僕が言うよりも本当に津波の怖さを知っているのは君たちじゃないか。大震災で多くの人が犠牲になったけれども、これがまだ意識の高い東北の人たちだからこれだけの被害で収まったともいえるんだ。震災以前に関東近辺で意識が高いのは静岡くらいだよ。そういう何も知らない人たちがやってくるんだ。君たちに呼ばれて。その本当の重さを分かっているのか。その1日に津波が来る可能性は低いかもしれない。実際に津波は来ないだろう。でも、君たちが大勢の人に呼びかけたこと、そして、その人たちに対してリスクの説明を十分にしなかったという事実は消えない。平成16年に想定宮城沖地震のシュミレーションによって「これより先津波浸水想定区域」の看板を作りながら、十分な備えをしなかった者たちと同じことを繰り返すことになる。しかも、今度はシュミレーションではない、実際に経験しているにもかかわらずだ。被災地から一番伝えるべきことはありがとうなのか。来たるべき震災に備えるために、経験を伝えること、それこそがお返しになるんじゃないのか。

大槌の中ではあの津波浸水区域の北小に仮設商店街を作ったこと、そして、何よりも外からのゲストであるボランティアを宿泊させていることに賛成しない人たちも多くいる。遠野まごころネットはあくまで大槌の外の団体だ。臼沢さんは大槌で生きていくかもしれないけれども、まごころの人はどんなに一生懸命、仕事をしてくれても、引継ぎをしていつでも大槌を去ることが出来る。僕はいまだ大槌に住んでいるわけでもないし、外から来ているよそ者に過ぎない。でも、君たちは違う。大槌が好きで、大槌で生きていくんだろう。今、大槌の人たちとともにやらなければならないことはロックフェスなのか。もちろん、ロックフェスを喜ぶ人たちもいるだろう。でも、何も知らない人たちを大勢、浸水区域で集めること、見ている人たちは見ている。

繰り返すけれども、君たちが一生懸命、募金活動をやっていたことは知っている。働く場も失い、生活も苦しい中で支援を受けて感謝はしているけれども、何もできない、そういう人もいると思う。そういう中でも少しでもお金を出してくれる人もいるだろう。その気持ちは本当に尊いものだと思う。でも、やるならば、そういうお金だけでやるべきだった。支援を受けながら、支援ありがとうというイベントを打つことにはすごく違和感を覚える。それは筋が通らないだろう。今まで支援を受けないで頑張ってきたことは何だったんだろう。あの夜、僕は支援を受けてもいいんじゃないかと言ったと思う。でも、君らはそこを譲らなかった。歌なんか何も歌わなかったけれど、僕はたしかにそこに本物のロックを見た。みんなで何かを一緒にやりたいという気持ちは分かるけど、本当に苦しいときに頑張って守り通したロック魂を捨ててまで、君たちが盛大なロックフェスにしようとしていることはとても残念だ。それは僕にはもうロックだとは思えない。
今日は毎月やっている復興支援の会合に出て来た。お話しされたのは12月に1週間ボランティアに行ってきたという方で、内容自体には新しい知見はないのだが、すごく新鮮さを感じた。プロのボランティアの方ではなく、こういう普通の方の話をもっと広くいろんなところでみんなに聞かせたい、という意見が初参加の方から出た。実は質疑応答のところで、僕も現地の状況を説明したりしたのだが、そういうところでも違いを感じられたのだと思う。仲間の小松さんと話をしていて「僕らいつの間にか忘れてる気持ちがありましたね」というようなことを語った。

そんなことをフェイスブックに書こうと思っていたら、去年、考えてたことを思い出した。復興支援に最初に参加した頃はちょうど緊急支援の局面が終わる頃だったので、僕は避難所も知らない。そのとき感じたのは、神戸の経験をしたボランティアたちの圧倒的な能力だった。そして、神戸の震災を研究して来た人たちの経験だった。今回の震災と神戸の震災は全く違う側面と同じ側面がある。たとえば、震災をきっかけに初めてボランティア活動に参加したという人が多数いたことである。神戸のときはそれがNPOの時代の幕開けだという風に思われた節がある。実際はそうならなかったが、そういう風が吹いたのはたしかだった。そして、今回の大震災でも同じようなことが起こった。だから、それぞれ支援活動を通じて、同じような体験をするんだけれども、タイミングが違うとその体験は少しずつ違う独自の意味を持っていて、それが重なっていることは重要かもしれないというようなことを議論してた。誰かと笑。

震災から1年は長かった。いろんなタイミングで支援に入った人がいる。そして、志半ばで支援から降りてしまった人もいる。今日はフェイスブックでそういう方の経験談が語られていた。そのこと自体にはあまり感慨はない。でも、いろんなタイミングで、いろんな人が関わっているというのは、ある意味で新しく、僕が初期に感じたことが起こっているのかもしれないと感じた。ものすごいスペシャリストだけが素晴らしいのではなく、いろいろなレベル(層)の人がなだらかに存在しているということが実は大切なのだ。支援も途中で苦しくなったら、休めばいい。その間、他の誰かがやってくれるかもしれない。力が戻ってきたら、また戻ればいい。

いつの間にか全く支援活動から関わってない人から見ると、僕は随分、支援活動をやっていると見えるらしい。僕自身は大したことをやっているわけではなくて、ただ状況を分析する能力があるから(これは今まで学問的研鑽で培ってきた)、実際、やっていることよりもすごいことを経験して来たかのように錯覚されやすいだけだ。僕の中では原則的に自分の活動が十分だとも不足しているとも思っていない。僕は他人から自分の行動をどう評価されても自分の中に確固たる基準があるので別にブレないが、ただ他人が僕の話を聞いてどう感じるかは大事だなと今さら気付いた。支援に関して絶対的な活動量と質で言えば、池ノ谷伸吾に敵う人は一人もいないと僕は思う。いつも全力で走ってる伸吾さんの姿を見ると、ときどき自分がたるんでるなと反省することはあるけれども笑、それによって僕の根本の考え方が変わるわけではない。伸吾さんは伸吾さんで完璧ではないし、だからこそ、僕自身の役割もある。それはこれを読んでいる方、一人ひとりにあるはずだ。そのそれぞれ違った形が折り重なって多様性があることこそ、未来への可能性なのである。

ただ、実際には支援という形はもう少し多様化していった方がいいのだが、そのあたりのことはまた、別エントリに書くことにしよう。