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キャッシュ・フォー・ワークといっても、実は理論的にちゃんと考えている人は、私の見る限り、当初から今に至るまでほとんどいない。特に、従来の雇用(労働)問題とキャッシュ・フォー・ワークの違いが何であるかということを説明できる人はほとんどいないのではないか。

現実に起こった、キャッシュ・フォー・ワークを見ると、いくつかのパターンがある。統計の取りようがないので、割合は私の勘であるが、次のような5種類がある。私のメイン・フィールドの釜石市・大槌町の例をあげてみよう。

第一は、純粋に地元の人たちが立ち上げた団体である。たとえば、復活の薪を作っていたNPO法人吉里吉里国である。今は第二弾の復活の薪を作ろうと色々と準備をしているところである。ただし、彼らにしても技術的な援助は外部(四国のグループ、名前を失念した。ごめんなさい)から受けている。このパターンが一番少ない。

第二は、外から入ってきた個人が立ち上げたケースである。このエリアでいえば、瓦礫のキーホルダーを販売している和Ring-Project(池ノ谷さん)、手芸用品(その他)を販売している大槌はらんこ・かまいし恋の峠うのすまい他(サンガ岩手の吉田さん)がそうである。ありていにいえば、資金力が弱い。厳密に言うと、初期の大槌復興刺し子プロジェクトもそうなのだが、今は吉野さんごとテラ・ルネッサンスが抱えているので、第三のケースに入れておこう。

第三は、外部の有力NPO(ないしNGO)が支援している場合である。これはこの地域であえていえば、テラ・ルネッサンスの刺し子プロジェクトである(本当は第二の変態と見るべきかもしれない)。他の地域で言うと、CFW-Japanとも早いうちから連絡を取り合っていた山形県に本拠を置く国際ボランティア団体IVY(アイビー)の試みである。彼らは石巻市と気仙沼市をフィールドにしている。多分、このケースが割と多い。

第四は、外部の企業が支援した場合で、この沿岸部最大のものは三陸に仕事を!プロジェクトであり、バックには博報堂その他の企業が付いている。有名な浜のミサンガである。これがキャッシュ・フォー・ワークに入るのかどうかは微妙であり、永松さんも著書の中では確信犯的にこれをキャッシュ・フォー・ワークと呼んだと書いてある。

第五は、政府の緊急雇用助成の枠組みを使ったもので、いわゆる「日本はひとつしごとプロジェクト」である。この枠組みをもっとも有効に使ったのは福島県である。ここで活躍したのがうつくしまNPOネットワークである。釜石市でもっともこれをうまく使ったのは我々と一緒にやってきた@リアスであり、継続して由比藤さんが担当して来た。キックオフはその一つである。この第三と第五のハイブリッドのこのケースがもっとも多いと思われる。

結果的にみると、我々のやったことが沿岸部のCFWを大分、苦しめることになってしまった。我々が本来、支援したかったのは第一から第三のキャッシュ・フォー・ワークであるが、博報堂がバックにあると見られた「みさんが」が入ってしまったために、第五のルートとの繋がりを断ち切ってしまった。つまり、博報堂のような企業に金が流れるのを振興局から嫌われたらしい。事実関係で言うと、みさんがプロジェクトも博報堂が会社として最初から乗り気であったわけではなく、少数の有志がそういう方向に巻き込んだ経緯があった。我々はその間の事情も知りつつ、政府だけではなく、一般企業も入る必要があるという判断で、彼らをバックアップした。個人的には、被災地支援を通じて仲間になった同士が、ただでさえ忙しい博報堂の業務の中、ただでさえ少ないプライベートの時間も被災地のためにと全国を飛び回り、企画書を書いていることも知っているので、別によい悪いを議論する気持ちはない。彼女たちが自分たちの活動が回り回ってどうなってるかを知らないように、被災者やその人たちに近い人たちも彼女たちの奮闘ぶりを知らない。全体を見渡すのはいつも難しいのだ。もちろん、私も私の仲間もそこまでは見通せてなかった。智慧が足りなかった。だが、復興は始まったばかり、この借りは必ず返す。

とまれ、結果として「新しい公共」の理念を体現すると思われているNPOに金が流れやすくなっている。岩手で言えば、@リアスや遠野まごころネットワークである。「新しい公共」をNPOだけで語るのも大問題で、この前、仁平さんの発表のときにも、その議論をしたのだが、それはまた次の機会に書くことにしよう。
皆さま、遅ればせながら、あけましておめでとうございます。年末年始と2週間ほど釜石、大槌に入っておりまして、あまりにもなじんでしまい、あれこっちに住むんじゃないのと言われる始末でした笑。有り難いことです。でも、しっかりいろんな方にもお会いしてきましたよ。そんなわけで、今年は年賀状を書く時間もなく、欠礼しております。もう少し余裕が出来たら、お手紙を書かせていただきたいと存じます。ごめんなさい。

刺し子プロジェクトの吉野さんが、震災以後に会う人とそれまでの友人とは全然、濃さが違うというような話をされていて、私もまったく同感でした。被災地、あるいは支援活動で会う人は、一瞬で、普段の人間関係なら考えられないようなことまで、深く付き合うことになったりします。そのやり取りはとてもスリリングです。被災地で起こる時間速度は、なかなか想像を絶します。今回は2週間もいたんですが、調査というより、限りなく実践活動に近いので、この人とこの人を会わせたらいいとか、この人に会って顔を繋いで行こうとか、そんなことばかりやっていました。怒られるかもしれないけど、なんか仲良くなって行くと、調査モードと言うか、完全に仲間モードになっちゃうんですよね。でも、そうじゃないと、実践が難しい。そういう側面もあると思います。

釜石、大槌を見て来た印象ですが、和Ring-Projectの池ノ谷さん曰く、クリスマスで町の雰囲気が変わったそうです。私も23日に入ったのですが、たしかにクリスマス・イブのケーキを買う皆さんのどことなく華やいだ雰囲気というのは、それまでになかったものなのかもしれません。少しずつ、立ち上がろうという機運が出てきた、という風に言ってよいかもしれません。ここらあたりで今までの活動を少し振り返ってみつつ、現状を考えて行きたいと思います。

私たちがCFW-Japanでやって来た活動は本来のCFWだったのかとふと思う事があります。そういう総括はほとんどやられていない。CFW-Japanは今は一般社団法人化して、永松さん、それから労働新聞社静岡支社の由比藤さん、私の三人が社員で、それに福島のうつくしまNPOネットワークの鈴木さん、ワカツクの渡辺さんが理事という体制になっています。今までのCFW-Japanは永松さんの最初の私案があって、それに大きな影響を与えたのが由比藤さんでした。例の日本はひとつ仕事プロジェクトに取り入れられたやつです。厚労省だけでなく、雇用助成が降りてくるから、それを現地の活動と結びつけることと、というのがCFW-Japanの最初の活動でした。

CFW-Japanは最初はメーリングリスト上でいろいろな議論をやっていました。私は最初から緊急支援は自衛隊、消防がやるべきで、我々の出る幕ではないと思っていたので、その当時使っていた言葉で言うと、第2フェーズに備えるために議論を重ねるべきだと考えていました。そういう考えなので、私は一度もいわゆるボランティア活動もしていないし、義捐金を出したこともありません(個人的なカンパは付き合い上、何回かしてますけど)。全然自己完結じゃなく、友達のところに毎回、お世話になってます。

4月の中頃でしたか、釜石出身の女性の方の紹介でMLに加わっていた@リアスの鹿野さんが我々の議論に業を煮やして、いったいいつの震災の話をしているんだ、将来に起こる震災の話をしているのか、という趣旨のメールを送って来られました。そのメールは実は少なからぬメンバーに影響を与えました。ちなみに、その頃、議論してた内容は地域通貨で、それが縁で私は一面識もない岡田真美子先生にメールを差し上げ、メンバーになってもらいました。CFWのMLは休業状態なので、関係は途絶えましたが、岡田先生は宗援連の幹部の一人なので、その方面で個人的には御縁が繋がっています。地域通貨の重要性は僕は今でも疑っておりませんし、実現に向けての道筋もないわけではありません。それはもう少し形になったらお話しします。

4月の終わり頃にCFWは最初の会合を持ちました。永松さん、由比藤さんの路線が必ずしも全体のコンセンサスになっておらず、結果的に、初期のMLで私以外ではもっとも投稿していただろう川井さんがその会合を機に、CFWを抜けることになりました。これは明らかにコミュニケーション不足で、元々、一度も会ったことのない見ず知らずの人々がWEB上で集まって始まったことですから、そういう限界がありました。私は個人的には川井さんとの縁が切れるのはもったいないと思ったので、飯田さんを誘って、一緒に活動をして行くことになりました。これはその後、雨マケになります。結果的に、初期の主要メンバーの両方と繋がって動いているのは私だけですね。MLが低調になったのはこのときの失敗があったことと、私も含めて議論の中心になっていた人たちがそれぞれの活動に傾注して行った結果、MLに精力を傾けなくなったためです。

その後、永松さん、由比藤さんは鹿野さんをサポートしていて、現在も@リアスとCFW-Japanは共同でプロジェクトを立ち上げて行こうとしています。が、内容は今最終の詰めている段階なので、そのうちに紹介します。実務的な面では由比藤さんが全力でサポートしてきました。大まかに言うと、国からの助成を最大限に利用しながら、事業を遂行するという仕組みです。日本はひとつ仕事プロジェクトも本来は、それぞれの下からのニードを吸い上げて、そこにお金を落とすというのが制度理念であったはずですが、実際には必ずしもそういう風にはなっていない。結果的にこの枠組みを比較的、上手に使ったのが福島県で、これは仕事のマッチングについてはうつくしまNPOネットワークに人のマッチングについては人材派遣会社に丸投げするという形でしたが、当初は絶対的な業務量が方になっていた行政をうまく補っていました。それでも限界があります。しかも、これに対して、宮城県、岩手県は完全に遅れを取っていた。

限界と言うのは、突き詰めるところ、アイディアの限界ではないかと私は考えています。永松さんを中心に、私も夏にはいろいろなところで調査させていただきましたが、最初こそ災害FM、買い物支援(御用聞き)、住宅見回りなど、いくつかの新しい試みに感動したものの、逆に言うと、その後はどこも似たようなことをやっているという印象に変わってきました。もちろん、制度設計上、最賃よりも高い賃金水準に設定したため、たとえば、近くのスーパーが再会した時にパート労働を圧迫したのではないかなどの懸念もありました。しかし、これもパートに来なくなったのは人が引っ越したためかもしれないし、緊急雇用の人とそこが重なっているのかどうかも検証はされていません。もし、重なっていたとしても、それはそれで一定の役割を果たした、といってもよいでしょう。

ただ、永松さんの発言がにわかに行政の人にも影響を与えるようになったため、彼が例示したことが役所で言うところの「前例」扱いになって、結果的に本当に新しい枠組みを認めないように作用したのではないか、という疑いを持っています。それでも、これはCFWの原点である、本格的な経済復興までのつなぎとしてのCFWという役割としては十分であったかもしれません。しかし、政府の資金に頼っている以上、撤退の時期が難しく、永松さんは当初から違うと主張されていましたが、私は戦後の失業対策と同じ問題に直面するだろうと思っています。緊急支援まわりで兵站戦になぞらえた議論が出てましたが、戦争で難儀なのは撤退戦です。プラクティカルには、失業対策事業のときに暗躍した某党のような人たちがいなければ、撤退自体は可能です。でも、撤退の後に何が残るかは課題として必ず出てくる。その先は見えていない。だから、私は最初から産業政策と結びつけて議論すべきだと言って来ました。でも、すべきだ論は今の時点では意味がない。実際にどう産業を興して行くかが重要です。その点は機会を改めて書きます。

秋口になるまで永松さんはCFW-Japanを法人化して事業を展開させようとは考えていませんでした。そういう意味では鹿野さんのところのサポートは由比藤さんおよび彼の活動を全面的にバックアップしてくれた労働新聞社さんの限定的な支援に終わっていた可能性もありました。秋ごろまでの、CFW-Japanの活動の大きな柱は啓蒙活動というか、実際に自然発生的に出来たCFWの試みを調査して、それを紹介して行くというところにありました。それがブログでのレポートに繋がります。次回はこのあたりの試みを紹介して行きましょう。
まだ何もできていないのだが、物資支援に間接的に関わることになってきて、いろいろな方向からいろいろな意見を聞く機会が増えて来たので、そのいくつかを整理してみようと思う。

まず、被災地で物資支援が足りているか、足りていないのかというと、足りていない。公式に物資支援の受け入れを中断している自治体もあり、公式か非公式かは分からないが、支援物資は足りているというところもあるようだ。これは処理能力の問題である。現に能力がないのだから、仕方ないので別の手段を考えないといけない。行政であろうと、出来の悪い組織を再生させるのは手間である。効率が悪い。ただ、個人レベルでは頼りになる人がいるので、そういう人は個人的に味方になってもらえばよい。ただ、どんなに素晴らしい人でも、個人で組織を変えるのは困難である。行政サービズの改善は期待しない方がいい。ただ、志を同じにする仲間は増やせるかもしれない。それだけである。

問題の核心は端的に言うと、ロジスティック(流通)である。被災地のどこで誰が何を必要としていて、支援したい側から見るとよく分からない。正確に言えば、ブログなどで被災地から発信しているものもあるのだが、それを探索するまでの労力はなかなか掛けられない。そういうジレンマがある。ふんばろう東日本支援プロジェクトなどは比較的、上手に機能している方だと思うが、それがすべてニーズを見たいしているわけではない。実際に、ふんばろうから支援を受けた人の話を聞いて同じものを受け取ろうとお願いしたけれども、支援を受けられなかった例も聞いた。しかし、それは常に同じ支援品をストックしているわけではない以上、当然だ。だから、完璧はいつまでも到達されない。これは問題の性質上、全体の統計が取れない以上、総量として足りているのかどうかは分からない。何れにしても、ロジスティックに問題があることは否定できない。それは永遠の課題である。今、私なりにこの課題を考えながら、何が出来るか仲間と議論を重ねているが、これはここで表明するべきことではない。

物資支援は贈与である。贈与は基本的に互酬が基本である。津波被災地の東北の方が一方的に物品を受け取ってただ喜んでいるだけでなく、申し訳ないという思いを抱くのは当然である。もちろん、支援者に直接、感謝の言葉を届けることが出来れば、それも幾分かその気持ちは薄れるだろうけれども、それでもいつまでも支援を受け続けるのが心苦しい気持ちは消えないことは想像できる。そして、私たち被災地外の人間が支援したい人たちは真にこのような健全な常識的感覚を持った方たちである。ここにジレンマがある。

首都圏の人の被災地への関心が薄れていると言われる。たしかに、関心が薄れているのは否定できないが、みんな、忘れたわけではない。何が必要か分かれば、支援したいと思っている人もたくさんいると思う。実は、そういう支援したいと思って支援出来ていない人は往々にして被災地の方に何も出来ないと申し訳ないと考えている。義捐金や物資支援もいいけれども、長期的な支援を行いたいと考えている個人や団体も数多くある。そういう立場からすれば、物資支援でさえも十分に支援しているとは思っていない。出来ることがそれしかないから、まず出来ることから支援しているのである。せめてもの自分の出来ることで、誰かが少しでも救われるなら、そういう思いの人も少なくないだろう。

こういうときに手紙のやり取りなどが出来れば、新たな交流が出来るだろう。実際に、それが被災者にとって生きがいになっているという話はいろいろな場面で聞く。だが、みんながみんな筆まめなわけではない。文字に出来なければ、言葉にできなければ、気持ちがないわけではない。ビデオで取ってウェブにアップするという手もあるが、それは恥ずかしいという人もいるだろう。そういうのはハードルが高い。このようなお互いを思いやるからこそ生じるちょっとした心のすれ違いを一つ一つほぐして行くのはとても大切なことである。だが、今は平時ではない。そういう心の葛藤を全部、承知の上で、それでもプラクティカルにやらなければならないこともあると思う。

こんなことを書き始めたのは、毎日新聞の記事を読んだからだ。この記事の中に、

福島県浪江町から山形市の借り上げ住宅に避難している女性(42)も「半年以上たったのに、ほとんど支援物資と義援金だけで生活が成り立っているのは情けない。自分で仕事をして稼いだお金で物を買わないと、生きている実感もわかない」と漏らす。

というくだりがあった。この気持ちはよく分かる。だからこそ、私は震災直後からCFW-Japanに参加して来て(この活動は今、新しい局面を迎えているが、それは何れまた)、自分の役割は雇用に関わることであり、物資支援を含む緊急支援は経験のあるNGOや宗教など、軍隊的組織の方に任せた方がよいと考えていた。実際には、ふんばろう東日本や助けあいジャパンのような、まったく新しい形のコラボレーションも生まれてきた。それは予想外だったが、私自身の持っているコネや能力を考えても、そこにコミットすることはあまり考えて来なかった。それは間違いではなかったと思っている。

私自身が方針を変えたのは、直接的には物資支援をしようという人たちと物資支援を必要としている人たちと出会ったからである。だが、もう少し考えていくと、緊急支援という従来の災害の枠組みでは考えてはダメであるということに行きついた。今回は規模が広すぎて、物理的な復興が全然、追いついていない。だから、継続的な支援をしないとダメである。神奈川にいても寒いのに、東北はもっと寒かろう。避難所があった頃も、冬物はかさばるからという理由で、支援物資の受け取りが出来ず、しかも夏になって解散する段階で、みんな何も持たないで仮設に移ったという地域もあるようだ。要は緊急支援的な援助が必要な地域も存在するということである。一般論で言えば、もともと裕福でない世帯は災害などの不慮の事態で一気に貧困世帯に陥ることがあり得る。これは歴史上、起こってきたことであり、今度もきっと生じているだろう。そういうところには支援を届けたい。

そうして、支援が必ずしも被支援者のためにならない、というのは、社会福祉や開発経済の世界では常識的に語られてきたことである。ここは実際に支援を受けている側の方の率直な感想を紹介しよう。一番、大事なことは人間は弱いからタダで支援が受けられたら、それを受けてしまう。だから、送る側も我慢しなきゃいけない場面がある、というメッセージである。

地元の経済活動を阻害する支援であってはならない、というのは重要な論点である。ほとんど顧みられなかったが、永松さんは当初、CFWの賃金水準は最低賃金以下にすべきであると主張していた。臨時的なCFWが経済復興活動を阻害してはならない、という考えからである。これは海外で行われてきたCFWの成果を受けたものである。もちろん、国内の最賃基準など考慮すべき問題があり、実践上は実現されなかったが、基本的な考え方は私も賛成したし、永松さんも今も変わっていないと思う。

今日も個人への援助は考えた方がよい、というような議論をしてきた。実は私がある個人の方を助けたい、という趣旨の発言をしたのだが、同じ助けるにしても、別のやり方を考えた方がよいと諭された。ここのブログを読んでくださった皆さんがどういう印象をもっているか知らないけれども、私はもともとは感情移入というか、肩入れしやすいタイプなので、学者モードをオフにするとそれが加速する。もちろん、冷静さを失い、感情に流されると、正しい判断が出来なくなるのは分かっている。しかし、頼るべき仲間がいると、必要なときに道を修正してくれる。有り難い限りである。私ももちろん、人は誰でも完ぺきではない。だからこそ、自分をよく知り、バランスを取る術を用意しておくというのは大切なことではないかと思う。ごめん、話が逸れた。

個人個人の支援というのはほぼ終わったかなと思っている。これからは地域の絆を取り戻し、あるいは新たに作りながらの支援に代わっていくだろう。それは中間マージンを取らない卸問屋みたいなもの(笑)。全部、ボランティアだからね。でも、問屋制って日本経済がテイクオフしていくときに重要な役割を果たしてきたんだよ……いかんいかん、先生っぽくなるから止めよう。とにかく、これからは送り手側のまとめ役と受け手側のまとめ役が重要になる。受け手側のまとめ役は同時に地域再生の錨になっていく人だと思う。そういう人たちがただ甘えているだけなのか、本当に支援が必要なのか、見極めてニーズを取って来てくれる。もう、その情報はその人たちを全面的に信頼するしかない。協業はどこかで全面、信頼しなければならない場面が出てくる。誰かに任せるというのは多分、本質的にそういうことなんだろう。
夏休みに二回ほどCFW-Japanの永松さんに被災地調査に連れて行ってもらいました。その後、途中同道した吉田律子さん(@サンガ岩手)さんと一緒に宗援連に行ったり、その翌日に吉田さんから紹介された方と意気投合して、週末には某研究会に行ったりして、なかなか輪は拡がっております。その間、雨ニモマケズプロジェクト実行委員会の仲間の土方さんは、これまたすごい活躍ぶりで人脈を広げ、復興食堂田野畑村の応援にも行ってきて、そういえば、その報告飲み会も楽しみ。

「楽しみ」なんて言うと、不謹慎に聞こえるかもしれませんね。実際、今回の調査で伺ったお話しの中ではそんなに簡単に「楽しい」なんて言えない厳しい現実もありました。それでも今はあえて「楽しさ」が大切なんですよ。それは我々被災地外から支援活動を行うものにとってはね。

前述の某研究会では、実際に支援活動をしている人たちが多く集まって、私自身はもっと大きなマクロの視点から話をしたんです。そうしたら、参加者の一人の方から「そういうマクロの問題はいいから、一人ずつ何がやれるかが大事だ」という意見を述べられ、自分がいかに人から非難されようと、信念をもって支援活動をしてきたかということを説明されました。ここに二つの問題があります。

第一に、今の支援活動で決定的に重要なのは後方支援です。日本では、と言いたくないけれども、思わず補給戦の重要性を理解しなかった日本陸軍以来の宿痾ではないかと考えたくなります。たとえば、東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)の事務を一手に引き受けているNPO団体シーズは10人弱の少数精鋭で、資金繰りに苦しみながらかつ、みなボロボロになってやっています。これを支援する枠組みはうまく作れていない。その他、現場レベルだとコーディネーターが決定的に足りない。となると、ある程度はこれを量産する仕組みを考えなければならないわけですが、そういう議論はなかなか起こって来ないんですね。

で、その後の飲み会ではここから話が展開して意気投合したんですが、支援活動はモノがある人はモノを出して、カネがある人はカネを出して、チエがある人はチエを出す、そういうことが必要だという話をしました。現場と全体との兼ね合い両方を考えるのって、一人の人間にも出来ますけど、それでさえ頭の切り替えが必要なんです。そうなると、現場に重点を置くプレーヤー、全体に重点を置くプレーヤー、両方が必要になるはずです。ただ、どちらの立場で行くにしても、やはり「楽しさ」ということがないとなかなか継続できない。これは5,6年、あるいは10年は掛かります。だから、持続して行くためにはどうすべきかということはとても大切な問題なんですね。その一つがシンプルだけど、「楽しさ」じゃないかと思います。

それから、これはまったく私の独断と偏見ですが、政府・行政には、直接、働きかけるルートがない場合は、批判さえもほとんど意味がないと思います。いや、実際には役所の構造を理解して、然るべき部署に働きかける必要がある人はそうした方がいいですし、実際、やっています。それ以外で自分たちでやれることは、他人を批判する前にやればいい。原則はそうじゃないかと思います。

第二の問題点は、ボランティアの独善性です(この点は途中でその方がいなくなってから、仰った方が何人かいらっしゃいました)。平たく言えば、我々が支援するために、被災者は被災したわけじゃない、という当たり前のことです。緊急支援という局面はもう終わりました。もちろん、物質支援(たとえば、仮設住宅で十分に買い物が出来ない)などの支援も相変わらず必要です。しかし、その一方で、そろそろ被災者・支援者という考え方から抜け出て、ただの仲間として一緒に新しいものを作っていく、そういう時期になってきているように思います。本当の仲間だったら関係は対等ですから、ボランティア的偽善性は入る余地がありません。

でも、難しいのはここから新たに支援活動をやりたい人でしょう。あるいは、そういう方は今までもやりたいと思っていたいけれども、どうすればいいのか分からなかったので参加できなかったと云う場合もあるでしょう。支援活動に入るのは正直、難しいです。僕らもそうですが、やはり、2,3日行って、それで信頼関係を築くのは難しいんです。そういう意味では、既に何らかの関係を作っていないと難しい。しかも、結果的に言えば、多くの人との関係を同時的に作るには仮設住宅よりも避難所の方がよかったんですね(避難所から仮設に移るというのは、多くの方が指摘しているように、単にプライバシーが確保された万歳!などというだけではありません)。そこで考えられる方法は、支援者と繋がるという方法ではないでしょうか。

実は支援活動は間歇的にいろいろやられているのですが、なかなか横の連携が出来ていない。そういう意味で、もし横の連携が取れていれば、効率よく、効率という言葉が嫌であれば、より多くの人に支援の手が届かせることが出来るかもしれないのです。土方さんや僕なんかは雨マケとしてそういう連携を作っていきたいので、まず東京でそういう人たちを繋げようという風に考えて、個人的にいろいろ動いています。何が出来るか分かりませんが、いろいろ繋がっていきましょう。

また、続きを書きましょう。

連絡先 金子良事 ryojikaneko@gmail.com
仙台に来ています。東日本大震災と職業訓練討論会に出席しました。手弁当です。

スピーカーの方のお話しは体験に基づくもので、とても参考になりました。とりわけ、飲み会の席で伺ったお話しがとても勉強になりました。日本的デュアルシステムはすごく役に立つ。その内容を詳しく伺っていると、まったくもともとの制度設計とは関係ない次元で役に立っているということなんです。つまり、中小企業と訓練生のマッチングになる、と。本当は中小企業のおやじさんたちもよい人材がいれば欲しい、でも職安に求人を出して失敗したりすると、出さなくなってしまう。その彼らの潜在的ニーズを引き出すのにはデュアルシステムが重要だというのです。

それはどういうことでしょうか?デュアルシステムは教科書的に言えば、訓練所での畳の水練だけではダメで、技能形成に派企業のOJTが重要だという話になっています。しかし、労働問題の研究者からすれば、そんな短期間で技能が身に付くわけがない、机上の空論だと思ってしまいがちです。もちろん、そのときに1級技能士のような技能が身に付くわけがない。基礎の部分だけで十分で、一回話をしただけでは採用は分からないけれども、1か月も見ていれば互いの人間性が分かる、それはもちろん、2,3カ月と長い方がいいけれども、1か月でも十分だということです。つまり、古臭い家族主義の中小企業のおっちゃんと、訓練センターの方が両方、義理人情の分かることが大事だという共通価値観を持っていることが成功のポイントのようです。あえてパラフレーズすれば、デュアルシステムは技能形成というより、マッチングシステムとして効いている、ということになりましょう。技能形成という側面をまったくオミットしてしまって、長めの採用試験と考えれば、インターンも含めて、大いに意味があるということになりましょう。

もう一つ、伺ったお話しで興味深かったのは、今、(津波)被災地の若者が流出している。若者は決断が速い。彼らがどこに行くかと云うと、北上とか盛岡、そして仙台です。そうすると、企業も優先枠を設ける。なぜなら、彼らを雇うと国から補助金が出るからです。そうなると、ただでさえ厳しい雇用状況の仙台の若者たちは、本当は地元にいたいけれども、どこか別のところ、東京に出てこなければならなくなっているそうです。おそらく、移動した両者ともに元には戻らない。被災地の若者雇用は大切です。でも、彼らがいなくなると、被災地は本当に再建が難しい。年寄りばかりが残ることになる。これが今の大問題だそうで、市の復興会議でもそれが最大の懸案事項になっているようです。

それから、twitter上では何度か議論になったコミュニティの問題、突っ込んで聞いてまいりました。やっぱり、震災前は古い共同体(かつての部落)をもとに地域が出来ていたけれども、それが地域ごとなくなってしまったところが相当にある。だから、新しいコミュニティを構築しなければならない、という話でした。また、仮設住宅に入っていくと、みんなバラバラになるから、分断されてしまうので、やはり、新しいものを作る必要があるとのことでした。

討論会全体は建築の話が多かったので、私は建築に集中するのはよくない。建築需要はせいぜい2,3年、長くても5年だから、全然将来に繋がらない。臨時失業対策は結局、高度成長になっても撤退できなかったという話をしました。その愚を繰り返すことになる、と。それに対しては他の産業が復興するまでの一時避難的な雇用であるという話をされていましたが、少なくとも、それをやっている時期に次の新しい動きを出しておかないとダメになってしまう、そういう議論をしました。

いきなり話が飛ぶようですが、私は今回の震災を機に、男社会はやめて女中心社会にシフトすればいいと思っています。まぁ、そこまでキツイ言い方は酔っぱらうまでしませんが、意外と実感としては、その通りだという男性が結構います(あんまり女性で賛成する人には出会いませんが笑)。シラフの時は女性の雇用を考える必要があるということは主張しました。臨時失業対策で最後まで残るのは戦争未亡人の寡婦たちです。それがある意味では日本の女性福祉を歪めているんですね。こういうことは避けなければならない。

そこまでラディカルな話じゃなくても「生活」というとき、男性より女性の方が智慧が上である、ということはほとんどの人が認めるところじゃないでしょうか(もちろん、個人差はあります)。生活に根差したコミュニティ作りの中心担い手は女性がいいと思うのです。といっても、そんなに美しい話じゃないですよ。たとえば、情報を採ってきてくれるならば、噂好きのおばさんに賃金を払ってもいい、そういう意味です。それは都会的な感覚からいえば耐え難いパノプティコンです。それでも、仮設住宅での孤独死が避けられるならば、その方がいい。すべて実践はセカンド・ベストです。何かを得るためには、何かを失う覚悟が必要です。

まぁ、そういうギリギリの話じゃなくても、個人的にはこの震災関連でお会いした女性たち何人かにインタビューして、そのバイタリティというか、パワーを本にして伝えたいと思っています。もちろん、女性中心社会と云ったって、実務的にはケース・バイ・ケースです。しかし、運動は極端なことをいって、方向を示さなければならないから、目指す方向はこちら側だということはやはり言っておきましょう。もちろん、三陸に仕事を!プロジェクト浜のミサンガも素晴らしいですけれども、もっと継続性のある仕事もみんなで考えていきたいところです。

後は東北は相当に国際結婚も進んでいて、故国に帰らなかった外国人も相当いて、その支援をしているという女性にも出会いました(教育学博士)。私の周りにも興味のある方がいそうですね。機会があれば、どんどん繋ぎますよ。

あ、もう一つ、教育で重要なのは防災教育、減災教育ですね。災害の記憶は必ず風化していく。それへの対応は教育しかありません。不幸中の幸いなのはこの個人メディア時代、多くの映像が残っています。こういうものを教材にして減災教育を作っていくのは教育学者の責務でしょう。

明日は宮城ポリテクセンターを見学です。

にしても、意外と復興食堂が知られていないことが分かったので、まだまだ宣伝しないと!